ボリビア日系協会連合会(FENABOJA)
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リベラルタ日本ボリビア文化協会
Centro Cultural Boliviano Japones de Riberalta

 

◆現在の組織◆


法人登録された非営利団体であり、当地域の他の組織(特に民間組織)と共同して、会員と地域に、文化と道徳の知的および身体的な向上の場を提供するとともに、向上心を支え、共同社会の利益を促進するための真の親睦と相互扶助を図る団体である。
理事会を構成し、会の運営にあたっている。

◆会員数◆
登録会員数は831名だが、実質的に活動しているのは15名前後で、会費の滞納も増えてきている。
登録会員の多くは、日本への渡航手続きに使う、日系人証明の必要性から登録をするが、日本への出稼ぎなどで実質的な活動には参加できなくなってしまっている。

◆今年度の活動◆
@ 5月 役員改選    A活動の見直し

◆公式行事◆
・  2月  3日  リベラルタ市の設立記念日。同行事に合わせて日本ボリビア文化協会の設立記念行事も執り行った。
  *当協会の前身となる「リベラルタ日本人会」は1915年2月15日にボリビアにおける最初の日本人会として設立されたといわれており、例年この前後に記念行事を行っている。
・  8月  6日   ボリビア独立記念日。市の行事に参加。
・11月18日  ベニ県の設立記念日。市の行事に参加。 

◆今年の活動予定◆
・ ボリビア日系協会連合会との連携強化
・ 会館の一部改修
・ ベニ県及びパンド県内の他の日系人会との関係維持。パンド県ポルベニール日系人会への協力。
・ 計画的な慈善活動を行う。
・ 図書室とインターネット環境の整備。(各家庭の不要図書の寄贈を呼びかけるキャンペーンを行う。)
・ 折り紙を通した青少年活動の推進。

◆最近の活動◆
・ 図書室とインターネットの運営。

(2004.3.12 リベラルタ日本ボリビア文化協会 Laura Takesako)


■日本語教室■
3ヶ月ごとにコースを区切って修了証を発行し、やる気のある人は継続している。子供クラス、大人クラス1・2は週に3回1時間ずつ、大人クラス3は週に2回ずつ授業をおこなっている。子供クラスは7歳〜12歳、大人クラスは13歳以上としている。 詳しくはこちら

(2005.11.26)

 

◆移民の歴史・文化協会設立経緯◆

リベラルタの日系人
(「日本人ボリビア移住史」より抜粋)

リベラルタ市は、アマゾン川の一大支流マデイラ川の支流となるベニ川とマドレ・デ・ディオス川の合流点に位置する人口約80,000人の町である。

この町は、ゴム及びカスタニア(アマゾンナッツ)の集散地として、1910年代から1920年代に栄えた町であり、日本人のここへの登場は1910年よりも2〜3年前と見られており、ゴム採取人・ゴム会社の建設請負が主な仕事であった。
1912〜13年ごろには、リベラルタの町には日本人の店が4〜5軒あり、日本人は近郊を含め50人くらいいたといわれ、1914年のリベラルタからグアヤラメリンの鉄道工事には150人もの日本人が参加したが、工事は途中で中止になって、後は再びゴム採取に戻るか、農業に転じた。

 1915年(2月15日)にリベラルタ市内に住む約30人の日本人で日本人会が結成され、発起人であった物部氏(大工棟梁、愛知県人)が会長になった。会の目的は、日本人間の親睦と相互扶助、情報交換、そして日ボ親善と日ボ交流などであった。1925年には日本人は600人を数えたといわれる。当時のリベラルタには、日本人は市内だけで150人、商店は約20軒あり、近郊で農業を営む者を入れると、日本人は700人近くにのぼると見られた。然し、その後、ゴム景気の凋落と、市況狭隘に基づく農産物価格の下落により、日本人はブラジル国へとアマゾンを下ったり、ボリビア各地へ散らばったりして急速にその数を減じた。
 現在、同市にいる日本人は数名であり、現在の日系人会の活動にはほとんど関与していない。

 しかしながら、過去において600〜700名の日本人(周辺のゴム林地区を入れると1,500名を超えたとも言われる)がいた関係上、その落としだねも少なくなく、日本人の姓を名乗り日本人の顔立ちをした人も多く日系人会の推計ではリベラルタ市およびその近郊にいるこれらの日系二世から五世は約8,000名にのぼると言われる。

 現在のリベラルタ日系人会の正式名称は「日本ボリビア文化協会」で、その主な活動は、日本語普及クラスの運営、中学生・高校生のための図書室の運営、インターネット利用の環境の提供、NGO等の地域改善セミナーへの協力、などを通して地域の教育面の向上を図るとともに、会員間の親睦と相互扶助を行っている。運営に係る経費の捻出は会員の寄付及び会館施設の賃貸料などによっている。

 なお、この会館施設は、1999年の「ボリビア日本人移住100周年」に日本国大使館の草の根無償援助により建設された「多目的サロン」と記念事業として日本からの寄付金により改修したものである。

 

-ボリビアにおける日系社会発祥の地「リベラルタ」-
(日本人移住100周年誌「ボリビアに生きる」より抜粋)

ゴム景気の時代に、ベニ州内で最も大きく発展した町がリベラルタであった。リベラルタはマドレ・デ・ディオス川とベニ川が合流する地点にあることから、それらの川沿いのゴム林で産出されたゴムの多くがここに運ばれた。その結果、リベラルタはゴムの大集散地として急激に発展した。

リベラルタに到着した最初の日本人はペルーからアンデス山脈を越え、さらにマドレ・デ・ディオス川を下ってやってきた人々であった。誰がその草分けであるかはわからないが、最初の日本人が到着したのは1908年頃であるといわれている。

第一次世界大戦が終結した1910年代後半からゴム景気が凋落し、それに伴ってリベラルタを出て行く者が増え、かつての活気溢れた街の姿は消えていった。日本人たちの多くもリベラルタを去っていった。日本へ帰国した者や国外へ転出した者もいたが、多くはボリビア国内各地へ拡散していった。リベラルタからベニ川を下り、ビリャベリャを経てマモレ川を遡行してトリニダやコチャバンバへ、またベニ川を遡行してルレナバケやラパス方面へ移動していった。

確かな記録は残っていないが、各地の人々の話などからベニ州の至るところで日本人の足跡を見出すことができる。カチュエラ・エスペランサ、ビリャベリャ、グアヤラメリン、サンタアナ、レイエス、トリニダ、サンイグナシオ・デ・モホス、サンボルハ、ルレナバケなど、川沿いの町を中心にしてベニ州のあちこちへ日本人は拡散していったのである。そしてそれぞれの地に落ち着いた日本人たちは、現地のボリビア人女性と結婚し、子供をもうけた。現在ベニ州、パンド州における日系人の総数は約10,000人、その中でもリベラルタには約7,000人いるといわれボリビアにおける最大規模の日系社会を形成しているが、実際にはこの数字をはるかに上回る数の日系人がいると思われる。ベニ州・パンド州の日系人はボリビア人として育ち、外見からもそのほとんどは日本人の血を引いていると判断するのは難しい。すでに5世も誕生しているという。

ボリビア日系社会発祥の地とされるリベラルタで「リベラルタ日本人会」が設立されたのは、1915年2月15日であった。このころにはゴムの生産は衰退しはじめたが、1914年の第一次世界大戦勃発により、それまで商権を握っていたドイツ人が祖国に引き上げた後を日本人が引き継いでいた。リベラルタ日本人会の活動は、日本語の書籍を取り寄せて会員の娯楽に役立てたり、天長節、ボリビアの独立祭には盛大なセレモニーを行い、余興として相撲や剣道、運動会、映画会などを催したりしていた。その他に、領事館業務のようなことも行っていた。しかし、1925年頃にはもう新しく日本人が入ってくることはほとんどなくなって、会員の中からも各地に出て行くものが増えていった。

1941年2月、第二次世界大戦によりドイツ系商店が資産凍結されている状況から、日本人会の会合等の自粛を決議した。1943年3月5日、ついにリベラルタに住む日本人の強制収容予定者と資産凍結対象商店の名簿が米国から送られてきた。この日、郡長と市長が日本人協会の主要な会員を集め、非公式の会合を開いた。この席でその名簿が発表されたが、郡長は日本人たちに「米国の飛行機が来る日にはできるだけ隠れているようにしてください。そうしていれば不在ということで逃げられるわけであります。しかし米軍に見つかった場合、我々はそれを引き止めることはできませんので注意してください」と忠告した。郡長は日本人たちにこのような制限を加えたくなかった。しかし、この問題は国際的なもので、また米国からの強制であったため、ボリビア官憲として命令を受けなくてはならなかったのである。
そして、この場で述べたことは絶対に秘密にするように付け加え、「吾等は皆様とは、兄弟も同じように暮らしており貴殿等をヤンキ等に引き渡すような事は出来ません。殊に親類関係のあるものが多くて断じてヤンキの言うようにはさせませんから安心してください」と最後に締めくくったという。
このようなボリビア官憲の配慮により、リベラルタから米国へ強制収容された日本人はいなかった。資産凍結で閉鎖された商店は数店あったが、資産を没収されることはなかった。それまで日本人商店は総じて評判が良かったため、リベラルタ町民から抗議があり、閉鎖された商店はその数日後には商売と再開できたという。しかし外国と貿易を行うことは禁止された。

1945年8月15日、日本の無条件降伏により太平洋戦争が終結。虚脱状態に陥った1世たちは、日本のことについて一切語らなくなり、子供たちをボリビア人として育てていくことを決意した。
そのような中で、1948年にリベラルタの沖縄出身者は、「リベラルタ市沖縄戦災救援会」を設立し、義援金や救援物資を沖縄へ送り、1日も早い沖縄の復興を願った。それだけにとどまらず、ボリビア移住までも計画した。現在サンタクルス県にあるオキナワ移住地の建設は、当時のリベラルタの日本人抜きには語れないものである。「リベラルタ市沖縄戦災救援会」は、やがて「うるま農産業組合」に再編され、リベラルタ在住の沖縄出身者たちは移住計画地へ人員を派遣して現地調査を行い、受入体制を整えるなど沖縄の人々の救済に奔走した。

1950年、それまで活動を中止していた日本人協会が「リベラルタ日本人会」という新しい名称で7年ぶりに再結成された。50年代半ば頃からリベラルタの経済を支えてきたゴムとブラジルナッツの価格が下落したため不景気となり、移動できる日本人は他へ移動し、リベラルタの日本人の経済的な地位は急激に低下した。同時にこの時期は、年老いて亡くなっていく1世も多く、その結果、必然的に1世中心から2世中心へと時代は移っていった。

1976年に2世が中心となって「日本ボリビア文化協会」が設立された。しかし1世と2世の折り合いがつかず、80年に1世中心の日本人会が文化協会に吸収されるまで、リベラルタには2つの日系組織が存在することになった。しかし、活動らしい活動はほどんど行われなかった。
1989年頃から多くの日系人が日本へ出稼ぎに行くようになった。そこでリベラルタでは文化協会が、出稼ぎ希望者の必要書類を整える業務を担い、情報提供の場として機能した。狭い市内に出稼ぎ斡旋業者が4軒も出現するほど一大ブームをもたらした。しかし、この日本への出稼ぎ現象は、文化協会の機能をずたずたにした。それは多くの日本人が正規の手続きを踏まずに事実上の結婚生活を続けたため、現在になって日系人であることを書類上で証明できないという現実に直面したからである。一方で日系人であることを証明できるが、出稼ぎにいけない自分の戸籍を非日系人に売ったり、養子縁組をして儲けた者もいた。

文化協会が98年に調査した会員の職業分布資料をみると、商業や農業に従事する者が比較的多い。また83年の調査結果と同じく、現在でも教師の職に就く者の割合は高い。しかし目立つのは肉体労働者や家政婦が多いこと、専門職に就く者が少ないということである。これは会員のほとんどが経済的に恵まれていないことを示している。リベラルタに巻き起こった出稼ぎブームは、たしかに日系社会の経済水準を向上させた。しかし、それらはごく一部の会員の結果にすぎず、今でも多くの会員は貧しい生活を送っていると文化センターの会長は指摘する。

 

◆クリスティーナ・シオザキ(Cristina Shiozaki)会長のインタビュー◆
(2001年10月実施、日本語訳:角井信行日系社会シニアボランティア

クリスティーナ・シオザキです。教員で日ボ文化協会の会長を務めています。
会員は現在約800人登録されていますが会費を払ってくださっている方は少数です。当文化協会では、100周年を期に日本からの援助で設置した図書室を有効に使わせて、学生の読書力を高め、コンピュータを使いこなし、勉学にいそしむ習慣をつけさせ、学力を高めることを主目的にしています。

日本語教室もあって、チズコさん(協力隊員)に教えてもらってますが、大変人気があります。
子供達は日本語と日本文化に大きな関心を示しています。 日本語を学ぶことにより折り紙や行事など他のことも学ぶことになります。 JICAから派遣してもらっている日本語のボランティアはその意味でも大変助けになっています。 JICAからのこういった協力が継続されて、日系人ばかりでなく日本文化に興味を持つ人に役立てばと思っています。

日本語を学ぶ人が、どんどん増えていくことを望んでいます。 JICAには日本語の先生を継続して派遣してもらえるようお願いしているところです。 文化協会はこれからも発展していくものと楽観しています。 現在の運営を続けていく限り、会員のためになる文化協会になっていくものと確信しています。


リベラルタ日本ボリビア文化協会
CENTRO CULTURAL BOLIVIANO-JAPONES DE RIBERALTA
住所:Av. Sucre y Calle Alberto Natusch
郵便:Casilla No. 108, Riberalta, Beni, Bolivia
Tel/Fax: 012-3852-3110
e-mail: ccboljap@hotmail.com

アマゾン川沿岸の町 リベラルタ(日本人移住100周年、アマゾンの奥地で行われた日本人祭)
リベラルタで生まれ育った日系人 ペドロシモセの軌跡を追って
ペドロシモセ氏(2001年10月実施)のインタビュー

ボリビア日系協会連合会 / Federación Nacional de Asociaciones Boliviano-Japonesas
Tel:(591-3)333-1452,Fax:(591-3)333-1452,住所:Calle J. Coimbra 57,郵便:Casilla 2006, Santa Cruz-Bolivia,E-mail: fenaboja@cotas.com.bo
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