◆ボリビア国の概況(地理・歴史)◆
写真:美しきボリビア-アンデスからアマゾンへ-
【イリマリ山、チチカカ湖、インカ道、コチャバンバ、動植物、ポトシ、スクレ、各地舞踊等】(”ボリビアに生きる”より)
【概況】
ボリビア共和国は南米大陸のほぼ中央部に位置し、大陸の6%に相当する5番目に大きい国土(1,098,581Ku、日本の国土の約3倍)を所有している。
周囲は北部、東部をブラジル、南部をアルゼンチン、パラグアイ、そして西部はチリ、ペルーに囲まれた内陸国。
アンデス山地(寒冷地)、高原地帯(温暖地)、アマゾン流域平地(熱帯雨林) に分類される。
正式国名:ボリビア共和国 República de Bolivia
首都: 憲法上の首都はスークレ
実質上の首都は、ラパス
(政府所在地はラパス)
独立年月日: 1825年8月6日
政体: 立憲共和制
元首: エボ・モラレス・アイマ大統領(Evo Morares Ayma)〔2006年6月現在〕
位置: 南緯 9度40分〜22度54分
西経57度25分〜69度38分
<日本との時差>13時間
面積:1,098,581ku (日本の約3倍)
総人口: 830万人 (2001年推定)
人口密度: 7.55人/ku(日本の約1/45)
一人当たりGDP:
970ドル (UNDP 1999年統計による)
非公式統計では3,000ドルと言われている。(日本は2001年度約30,000ドル) |
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通貨: ボリビアーノス(bolivianos) $us.1=Bs.8.06 (2006年6月3日現在)
日系人数(推定):約14,000人
民族: 先住民(ケチュア族、アイマラ族)55%、
メスティソ(白人とインディオの混血)32%、白人13%
公用語: スペイン語、ケチュア語、アイマラ語
宗教: カトリック
暦: <祝祭日> 1 月 .1 日・・・・ 新年 (Ano Nuevo)
..................................2 月 27 ・ 28 日 .カルナバル (Carnaval) ( 2006 年)
・・・・・・・・・・・・・・.4 月 14 日 ・・...聖金曜日 (Viernes Santo) ( 2006 年)
・・・・・・・・・・・・・・.5 月.. 1 日 ・・・..メーデー (Dia del Trabajo)
・・・・・・・・・・・・・・.6 月 15 日 ・・...キリスト聖体節 (Corpus Christi) ( 2006 年)
・・・・・・・・・・・・・・.8 月.. 6 日 ........独立記念日 (Dia de la Patria)
・・・・・・・・・・・・・.11 月 ..2 日 ........死者の日 (Dia de los Difuntos)
・・・・・・・・・・・・・.12 月 25 日 ..........クリスマス (Navidad)
この他、地区毎に独自の休日がある。
(2月10日オルーロ、4月15日タリーハ、5月25日スークレ、7月16日ラパス、9月14日コチャバンバ、9月24日サンタクルス、10月1日パンド、11月18日ベニ)
主な産業:独立以降のボリビア経済を支えてきたのは錫を中心とする鉱業で、錫の他、銀、金、鉛、亜鉛、銅、鉄、タングステン、アンチモン等の鉱産物にも恵まれ、近年では石油、天然ガスの開発も行われている。ただし、就業人口の比率からみると鉱業に携わっている人々は全人口の数%に過ぎず、約半分の人は農牧業に従事している。 |
【地理】 
現在ボリビアは、行政的には9つの州に区分されているが、地形的な特徴からは大きくアンデス高原地帯、アンデス東麓の渓谷地帯、そして東部に広がる東部平原地帯という三つの地域に分けられ、各地域はそれぞれ独自の自然環境に恵まれ、異なる特徴を見せている。
@アンデス高原地帯(アルティプラーノ)
ボリビアの西側のペルーやチリと国境を接する地帯には、一部に6,000mを超える山々も見られるアンデス山脈が走っている。
南米大陸の太平洋沿いを約1万kmにもわたり走っているアンデス山脈は、ペルー中部で東西二つの山系に分かれ、1,600kmほど南下したあたりで再びひとつの山脈になっている。このアンデス山脈が二つの山系に分かれている地帯、特にペルー南部からボリビアを経て、ボリビア、チリ、アルゼンチンの三国国境付近まで続く地帯はアルティプラーノとも称され、最大幅約500km、平均海抜3,500〜4,000mの平坦な高原地帯となっている。
ボリビア国土の5分の1を占めているこのアルティプラーノは、古くから高度な文明が栄え、また鉱物資源にも恵まれていることから、ボリビアの人口の約44%が集まり、最も人口の集中する地域となっている。
−アルティプラ−ノの作物−
アルティプラーノは平均海抜が3,500〜4,000mの寒冷地に広がっていることもあり、植物の生息に適した土地とはいえない。しかし、北部のチチカカ湖周辺は比較的気候が温和で降水量も多いため、アイマラあるいはケチュアといった先住民の人々により、ジャガイモ、キヌア(アカザ科の一年草)などの作物が伝統的な農法により生産されている。
特にジャガイモは、チチカカ湖周辺部にあたる中央アンデス中南部高地で最初に栽培化したと考えられ、現在でも非常に多くの変種が栽培されており、アンデスが生み出した代表的な作物といえる。
またキヌアは、そのヒエに似た種子にデンプンが含まれていて、粉にしてパン状に焼いたり、また粒のまま粥にして食されるなど、重要な食用植物として栽培されている。
−アルティプラ−ノの動物−
大規模な農業にはあまり適していないアルティプラーノでは、まばらに自生している植物を飼料として、アルパカやリャマといったラクダ科の動物の放牧が行われている。アルパカは、主として毛織の素材とするとめに飼われている家畜で、その毛で編まれたセーターなどは近年日本でも多く流通するようになっている。また、リャマの毛も織物などに利用されるが、アルパカほど品質は良くなく、むしろ荷役運搬用として利用されている。
アルティプラーノにはこの他グアナコ、ビクーニャというラクダ科の大型哺乳類が生息している。グアナコは毛や肉を利用するために、またビクーニャはその最高級といわれる毛を得るために乱獲され、その数は減少の一途を辿っているが、絶滅の危機を免れるため、現在では保護策が講じられている。
−チチカカ湖−
ペルーとボリビア両国にまたがるチチカカ湖は、海抜約3,800mという富士山より高い場所にある淡水湖で、その面積約8,700km2というのは琵琶湖の約12倍に相当し、また最高水深は280mに達している。
全体に荒涼とした地であるアルティプラーノの中でこのチチカカ湖周辺だけは気候が温和で、ジャガイモやキヌア、マメ類などの栽培が行われている。
周囲に丈夫な木材を提供する森林が存在しないため、周辺に住む人々はチチカカ湖の水辺に生えるトトラと呼ばれる草を用いて舟を作り、湖上を行き来している。このトトラは「あし舟」と訳されることが多いが、厳密には葦ではなく、カヤツリグサ科の植物である。ペルー領内のチチカカ湖上には、このトトラを集めて作ったウロス島という浮島がある。
A渓谷地帯(エル・バリェ)
アンデス山脈の東麓には、氷河や河川に削られてできた渓谷地帯(エル・バリェ)が広がる。
このエル・バリェの北部は、「ユンガス」と呼ばれる高温多湿の亜熱帯気候に属する肥沃な土地で、カカオ、バナナ、コーヒーノキ、サトウキビ、コカなど、熱帯性作物の生産が盛んに行われている。一方、海抜1.500〜2,800mの南部は、気温は温暖であるが、北部のユンガス地域に比べて乾燥した地域となっている。
エル・バリェもボリビア全土の5分の1を占めている。
−エル・バリェの作物や植物−
エル・バリェの北部に広がる肥沃なユンガス地方で栽培・収穫される作物は実にさまざまで、その土地の高度によっても収穫される作物の種類が異なっている。
荒涼としたアルティプラーノの下限3,500mから下り始めると、トウモロコシやマメ科の作物の耕作地が見られるようになってくる。2,500mぐらいまで下がってくると徐々に亜熱帯性の植物が目立つようになり、木立も鬱蒼としてくる。そして、1,500mまで達すると、森にはシダやラン科の植物、あるいは着生植物などが豊富になり、ユンガス地方の亜熱帯性の特徴が顕著になる。
しかし近年では、コーヒーノキ、カカオ、バナナ、柑橘系の植物、コカ、ヤマイモなどの栽培耕地面積が拡大されてきたため、自然の植物が少なくなりつつある。こうした現象は1,500m以下の地域でも見られ、キナノキ(樹皮からマラリアの治療薬キニーネが採取される)やゴムなどが、サトウキビ、あるいはパパイヤなどにとって替わられるようになってきた。
B東部平原地帯(オリエンテ、あるいはリャノ)
ボリビアという国については、「アンデス」という言葉を使って紹介されることが多い。しかし、国土の5分の3というボリビアの大部分を占めているのは、「リャノ」とも呼ばれる、東部に広がる大平原地帯オリエンテである。オリエンテは全体として高温多湿の熱帯気候に属しているが、地域によって多少の違いが見られ、その違いからオリエンテをさらに、北部のアマゾン地方と南部のチャコ地方、そして中央部とに大別することもある。
熱帯雨林の原生林に覆われた北部のアマゾン地方は、第一次世界大戦時のゴムブームの時には、天然ゴムの一大生産地として活況を呈したが、ブームが去ってからは、マホガニーやキナノキを中心とした林業が行われるだけで、最近まであまり開拓の手が入らなかった。なお、この地方の一部は草原・湿地帯で、一大牧牛地帯となっている。
北部とは対象的に南部のチャコ地方は、ほとんど雨の降らない乾期が存在することから、サバンナの様相を呈しており、人口密度も希薄である。
アマゾン地方とチャコ地方にはさまれた中央部一帯は、亜熱帯性の気候で、近年ではサンタ・クルスの町を中心にして著しい発展を遂げている。
−オリエンテの植物・動物−
オリエンテの北部一帯は、鬱蒼とした熱帯雨林が広がっている。その南に続く地域にも熱帯雨林は残っているが、その他にパラゴムノキ、カカオ、クルミ、ビャクダン、あるいはバニラなどの分布が見られる。またこの地域には、「アンデス」からは想像のつかないようなオニオオハシ、ペリカン、ジャガー、バク、イノシシ、アリクイ、ヤマアラシ、シカ、サル、ワニ、ボア、毒ヘビなど、熱帯地域特有の生き物が生息している。
一方、南部のチャコ地方に広がるサバンナでは、サボテンなど乾燥に強い植物が見られるが、やや多湿な地域にはヤシが茂り、ケブラコ(ウルシ科の植物で樹皮は皮なめし・染料に使われる)、イナゴマメ、ゴウルリエア(マメ科)、アカシアなどの植物も見られる。
【歴史】
<先スペイン期>
スペイン人による征服以前のボリビアの歴史については、ティアワナコ文化について取り上げられるだけで、それ以外のことについてはあまり詳しくわかっていない。しかし、特にアルティプラーノ(アンデス高原地帯)においては、後のティアワナコ文化の元となるような古い文化(プレ・インカ文明と総称される)の痕跡が残されており、それらの中には少なくとも約3,000年前まで遡ることができるものもある。
ティアワナコは、ボリビアだけでなく、アンデスの歴史を語るうえで重要な文化で、チチカカ湖から南東数kmのところに広大な遺跡が残されている。チチカカ湖周辺にはすでに紀元前より人が住んでいたが、紀元500年ごろからアイマラ系の人々によって大神殿などの建設が行われはじめた。そして、9世紀から11世紀にかけてティアワナコ文化は、全盛期を迎え、その影響は中央アンデス全域にまで拡大していった。
このティアワナコ文化の拡大により、アルティプラーノ(アンデス高原地帯)の人々とボリビア東部のアマゾン地方を拠点としていたグアラニ、あるいはチキート、モホという狩猟・採集を主とする人々との接触が持たれるようになり、時には戦闘も行われた。しかし、地理的条件などからティアワナコの影響は最小限にとどまり、以後彼らは他の部族の支配を受けることなく独自の生活を送っていた。
一方、13世紀はじめにペルーのクスコ周辺から発生したケチュア系の人々による「インカ帝国」は、急速にその版図を拡大していった。やがてその勢力はチチカカ湖周辺にもおよび、15世紀に入るとティワナコを中心としたアイマラ系の人々の地はその勢力圏に組み入れられてしまった。なお、アルティプラーノに対するインカの支配は、第11代王ワイナ・カパックの時代(在位1493-1525)に頂点に達した。
−ティアワナコ遺跡−
現在、遺跡として残されている中にある、祭祀場の跡とされる主要基壇・カラササヤには、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、両手で儀仗や儀器を捧げもった大型石彫が立てられている。また、カラササヤの側には、さまざまな表情をした丸彫りの人頭像が壁面にはめ込まれた「半地下神殿」がある。遺跡周辺には、水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行なわれていたことが伺える。
<スペイン人による征服>
16世紀に入ると、中南米の先住民文化が栄えていた地域周辺にスペイン人たちが姿を現すようになり、1521年のメキシコ・アステカ王国の征服をはじめとして、各地で征服活動が繰り広げられた。
1533年に「インカ帝国」を征服したフランシスコ・ピサロに率いられたすペインの一行は、更なる富を求めてアンデス奥地にまでその歩を進めていった。(のちにポトシで銀鉱が発見され、以後17世紀頃まで南米の植民地の中でも重要な地域となった。)当初ボリビアの地は、ピサロとともにインカを征服したディエゴ・デ・アルマグロの支配地となった、ヌエバ・トレドと呼ばれた領域の中に含まれていた。しかし、スペイン人たちが、征服していった先住民たちの土地に自分たちの町を建設し、その支配体制を整えていくと、現在のボリビアはペルー副王領の中に組み込まれ、「アルト・ペルー」と呼ばれるようになった。
そして1559年にチャルカス(現在のスクレ)にアウディエンシア(聴問庁)が設置されると、アルト・ペルーの大部分はその管轄下に入れられた。なお、それ以南の地域も当初はペルー副王領の管轄下にあったが、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が新たに建設されると、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイはその中に編入された。
−ポトシの銀−
1545年に発見されたポトシのセロ・リコ山の銀鉱脈は、やがて膨大な量の銀を産出し始めた。ポトシの町は銀山が発見されて1年後の1546年に建設されたが、1650年頃には推定人口約16万人を抱える大都市に成長していた。ちなみに、当時のスペイン本国の都市人口がマドリードで約5万人、バルセロナで約3万人と推定されていることからも、ポトシの町の繁栄ぶりが伺える。
セロ・リコの銀山では、1570年に金銀の精錬法のひとつであるアマルガム法が導入され、またミタ制という先住民の強制労働力徴発制度が行われたことにより、その産出量が飛躍的に増えた。産出された銀は、ポトシの町で精錬・鋳造され、太平洋岸のアリカまで陸路で運ばれ、同港からカリャオを経由し、パナマへ向かった。そしてパナマ地域を太平洋岸から大西洋側まで陸路で運ばれた後、再度船積みされてハバナなどで他のスペイン植民地からの船と合流し、大船団を組んでスペイン本国まで運ばれていった。しかし、スペインへもたらされた膨大な量の銀のかなりの量はスペイン本国内に留まることなく、当時スペイン国王がヨーロッパ各地で行っていた戦争に必要な経費の借金返済に充てられた。ドイツの金融業者などの手を経て他の国々へと流れていった銀は、当時のヨーロッパ経済に大きな影響を与えることになった。
ポトシ銀の産出量は16世紀末に最大となったが、17世紀に入ると減少に転じ、18世紀に入ると急速に衰退した。そして19世紀初頭の独立戦争でさらに荒廃は進み、かつての栄華は完全に忘れ去られたようになってしまったが、今世紀に入ってからは錫鉱山として再び発展の兆しを見せ始めている。
<スペインからの独立>
スペインによる統治が進むにつれ、植民地内部では、政治権力の中枢が少数の本国生まれのスペイン人に握られていることに対して、植民地生まれのスペイン人・クリオーリョたちの不満が高まっていった。こうしたクリオーリョたちの不満は、やがてスペイン本国から独立して自分たちの国を作ろうという動きとなり、1809年、遂にチュキサカ(元チャルカス・現スクレ)において独立運動が勃発した。この時の運動はすぐに鎮圧されてしまったが、独立に向けての気運自体が消えてしまったわけではなかった。
ボリビアの独立は、ベネズエラ、コロンビア、ペルーなどを独立させたシモン・ボリバル麾下のスクレ将軍率いる軍隊により、1825年に達成された。独立宣言は8月6日に行われ、ボリバルにちなんでボリビアと名づけられた新国家が誕生したのである。なお、この翌年にはボリバル起草による憲法が採択され、スクレ将軍が終身大統領に選ばれたが、彼は1827年に起こった内乱により国外追放となり、国内秩序の確立は後継者として選ばれたサンタ・クルス将軍の手に委ねられることとなった。
<ボリビア革命から軍政、そして民政へ>
19世紀後半のボリビアは、都市部に住む民衆を支持基盤とした指導者(カウディーリョ)たちが入れ替わり交代する、政情不安の時代となった。また、アタカマ砂漠の硝石やグアノ(熱帯の海岸や島に生息する鳥の糞が堆積したもので、リン酸肥料として活用される)の利益をめぐってチリとの間で勃発した「太平洋戦争」(1879〜83)、アマゾン上流のアクレ地区のゴム採集者たちの反乱を契機として起こったブラジルとの「アクレ紛争」(1899〜1903)、そして南部の広大なチャコ地方をめぐってパラグアイとの間でおこった「チャコ戦争」(1932〜35)という相次ぐ国際紛争の結果、ボリビアは広大な領土を失い、海への出口を持たない内陸国となった。また、国内政治も、相次ぐクーデターなどにより常に不安定な状態にあった。
こうした中、特におびただしい数の死者を出したチャコ戦争の敗北の結果、国民のナショナリズムが高揚し、政治的・社会的現実に目覚めることとなった。そして1941年、チャコ戦争に参加した青年将校や都市部の中間層を中心として、政治の改革を目指した民族主義的革命運動党(MNR)が結成された。
MNRは、中間層や農民をも含めた労働者階級の支持を獲得して力を持つようになり、51年の大統領選挙では、党首のビクトル・パス・エステンソロが当選するまでになった。しかし、軍部はこの選挙結果を認めず、クーデターを起こして政権を掌握した。これに対してMNRに率いられた鉱山労働者や市民たちが1952年4月9日、ついに武装蜂起し、軍部を圧倒して臨時政府を樹立、15日にはエステンソロが亡命先から帰国して大統領に就任するという、いわゆる「ボリビア革命」が起こった。こうして政権の座についたMNRは、錫鉱山の国有化、農地改革、旧軍隊の解体、文盲者への選挙権付与を含む選挙制度の実施など、全面的な社会改革に着手していくのである。
国民の消費水準を引き揚げると同時に開発をも進めていこうとするMNR政権が目指した社会主義路線は、やがて限界を迎えた。鉱山の国有化により生産は大幅に低下、さらに農地改革によって農業の停滞が引き起こされた。その結果ボリビア経済は、国際収支の悪化、インフレなど深刻な事態に陥り、MNRの支持母体のひとつである中間層に打撃を与えた。もはやMNR政権には、来れ異常社会主義路線を進めていくだけの力はなく、国家資本主義への進路転換を余儀なくされていた。しかしこの進路転換は、結局労働者をはじめとするMNRの支持者の多くを離反させることになり、さらにMNR内部でも分裂が起こった。ついに1964年、軍事クーデターが起こるとMNR政権は崩壊し、以後82年の民政移管まで軍事政権が続いた。
1964年から82年までのボリビアでは、クーデタにより数ヵ月で大統領が変わるという異常な事態が続き、政治的にも経済的にも壊滅的な危機的状況にあった。こうした状態に国民の不満も頂点に達し、文民政府を求める声が急速に強まっていった。すでに何ら業績を上げることもできなくなっていた軍事政権は、1982年10月に退陣し、民政への移管が実施され、民主的に政権の交代が行われるようになったのである。なおこの体制は現在も維持されている。
(「たばこと塩の博物館」の資料参照)
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