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◆コロニア・オキナワ(オキナワ移住地)の建設経緯
コロニア・オキナワ(オキナワ移住地)の建設計画は、第2次世界大戦によって廃墟と化した沖縄を救護する目的で、ベニ‐県リベラルタ市に在住する沖縄県出身者によって立案された。同市在住の沖縄県出身者は1948年11月、「リベラルタ市沖縄戦災救援会」を組織して義援金の募金活動を始める。この活動はラパス市沖縄救援会(同年8月に結成)からの呼びかけに応じて開始されたものであるが、リベラルタの沖縄出身者たちはこの活動を通じて「北米沖縄県人会」等からも沖縄の詳しい状況を知り、沖縄の疲弊を根本的に解決するためには集団的に移住者を呼び寄せる必要があると考えた。そこで1950年には救援会を解消して「うるま農産業組合」を新たに結成し、サンタクルス県に調査隊を派遣して移住地の選定に着手した。その一方でボリビア政府や琉球政府等との交渉を進め、1953年にはサンタクルス県内の1万ヘクタールに及ぶ国有地をボリビア政府から譲り受けることに成功した。 1954年8月15日、米軍統治下の沖縄から「琉球政府計画移民」の第1陣278名が「うるま植民地」に到着する。その1ヶ月後には第2陣127名も到着。しかし、間もなく熱病が発生して15名もの死亡者が出たため、翌1955年8月には現在のコロニア・オキナワの西方約80qに位置するパロメティーリャへ移転する。だが、そこでは土地の取得が困難だったことや不利な条件が重なったため、1956年7月にはさらに現在のオキナワ第1移住地へ移転することとなった。ようやく定住の地を見出すと、沖縄から続々と後続移住者が到着したため、1957年9月には第2移住地の建設が開始され、1963年には第3移住地の建設が着工された。こうして「琉球政府計画移民」は1954年の第1陣から1965年の第19陣まで続き、合計584家族、3,385名の沖縄出身者がコロニア・オキナワに移住した。 しかし、その後の道も決して平坦ではなく、洪水や干ばつなどの度重なる自然災害により移住地での農業に見切りをつけて、近郊のサンタクルス市や隣国のブラジルなどへ転住する者が続出した。1980年代には日本への出稼ぎブームが起きたため、移住地の日本人と日系人の人口はさらに減少した。だが、1990年代に導入された大型機械による大規模農家が定着して移住地の経済が飛躍的に成長すると、著しい人口移動は見られなくなった。琉球政府計画移民の第1陣の到着から48年を迎えた今日、コロニア・オキナワに居住する日本人移住者と日系人の人口は870人前後で推移している。 日本人移住者とその子孫が様々な困難を克服して開拓したコロニア・オキナワは、ボリビア共和国内の模範的な農村として讃えられている。また、ボリビア各地から、仕事を求めて移り住み、現在では日本人・日系人以外の人口が約1万2千に達し、総人口の9割強を占めるに至っている。こうした実情を踏まえてボリビア政府は1998年に、コロニア・オキナワを正式な行政区に制定し、第1移住地内に「オキナワ村役場」を設置した。行政区としてオキナワの名が冠されているのは、世界中で沖縄県とコロニア・オキナワだけであり、これは移住者とその子弟にとって誇りである。 ◆オキナワ日本ボリヴィア協会の概略オキナワ日本ボリヴィア協会は1978年11月30日に「コロニア沖縄農牧総合協同組合(略称:CAICO)」の行政部から独立して設立された。ボリヴィア政府に認可された社団法人であり、コロニア・オキナワの行政機能の多くを担っている。主な事業としてコロニア・オキナワ内の約280kmにおよぶ砂利舗装道路の維持管理、治安維持活動、国内外の各種団体との渉外、診療部の運営、健康保険組合事業、オキナワ第一日ボ校とヌエバ・エスペランサ小中学校の運営などが挙げられる。また、当協会の会員のほとんどが日本国籍を保有しているため、会員の本籍地の市区町村長に対する各種戸籍届出を代行している。この他、郵便物の発収や図書貸出など会員に対する便宜供与、テレビ放送、成人式、駅伝大会や運動会などの行事主催、など事業内容は多岐に渡る。 (”オキナワ日ボ協会概要” 2002年9月作成より一部抜粋)
オキナワ日本ボリヴィア協会 コロニア・オキナワ「未来をになう子どもたち」 |
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