ボリビア通信(81) 最終号 (→2003/7/12受信)
皆さんにお伝えしたいことはまだまだいっぱいあるのですが、ここでの活動を終了して、14日にここを発ちます。また日本へ帰って、思い出しながら少しずつお伝えしたいと思います。ひとまず、ここでの最終号にします。おしまいのほうはけっこう仕事が立て込んで、通信も少なくなってしまいました。最終号は、おちよ通信ボリビア版です。添付ファイル、うまく届くかな。
帰国後のアドレスは、以前のものに戻ります。
では、最後に、ボリビアの我が家から、雨上がりの青空を・・・・・。
おちよでした。
ボリビア通信(80)(→2003/6/19受信)
そう、バリロチェは南米のスイスだそうです。たった一晩ではもったいないすごいリゾートホテルです。ゴルフ場、ジム、プール、その他いろいろなエクササイズがあると書いてありました。
夕刻7時から8時は「ハッピータイム」だということで、カクテルラウンジで無料ドリンクとちょっとしたおつまみ。ピアノの音を聞きながら、アルゼンチンワインを片手に窓の外の真っ暗な湖を眺めていたら、きれいなお姉さんが、飲み物のオカワリを勧めに来ました。ただ酒をオカワリ・・・・・、ちょっとせこい気がしたけれど、せっかくだから、今度はシャンペンをいただいてピアノの音に耳を傾ける。クラシックなグランドピアノの向こうにいるのはちょっと年配のおじさん。でもよく聞いていると・・・・・。ンン???? なんかちょっと違うぞ。と帰りに薄暗いピアノの向こうをのぞいたら、ピアノの上にキーボードが乗っておりました。インチキです。
せっかくいい気分になっていたのにいっぺんに酔いが覚めました。
で、飲みなおし、とばっかりにメインダイニングへ。メニューに「サーモンの照り焼き」の文字。ちょっとうさんくさいけれど、ここまでけっこういい思いさせてもらったから、失敗覚悟でお願いしました。これが絶品。薄いしょうゆ味で、なんか懐かしい香りがしました。係りのお兄さんが「どうだ?」と聞くので、「気に入った。」と答えたら、しばらくしてシェフがやってきました。「とってもおいしい。」の私のことばに、その若いシェフはうれしそうな顔をして「日本で勉強してきました。」とのこと。こんなところにも日本を学んできた人がいてなんかうれしい気持ちになったのでした。
せっかくのリゾートホテルをたった一晩でおしまいにして、飛行機でブエノスアイレスへ。そう、本当に限られた時間なのです。でも、あんなに小さな町なのに、飛行場もすごい。ほんとうに近代的な大きな空港でした。でも飛行機は小型。
やがて下に見渡す限りのビル群。見たとたん、この町を見て歩くのはあきらめようと思うくらいの大都市ブエノスアイレスです。
空港からは片道8車線線くらいあるすごい道。ところが車線が引いてないのです。そう、公園みたいに広いところを車が無軌道に両方向へ走っているわけです。日系人の運転手さん、愛車プジョーをあやつり、見事に車の間をすり抜けていきます。この町では私は運転できないなぁ。
町の中も幹線道路は片側6車線くらいあって、その外に分離帯があってその向こうにまだ2車線くらいある。とにかく広いのです。ほんと、大都市です。東京なんて問題にならないかも・・・・。
その夜は同期のシニアと久しぶりのにぎり寿司をいただきました。そして久しぶりに日本語で話すと、やっぱ、ほっとするねぇ。
で、翌日の午後。同期のシニアの紹介してくれた「Frenkel's Leather World」へ。そう、アルゼンチンは革製品の天国です。でも、ピンきり。で、このお店、まさしく高級革製品の世界でした。色もデザインも日本では考えられないほど豊富です。その上、最近アルゼンチンのペソはすごい暴落。同期のシニアがここに赴任したときは「1ドル=1ペソ』だったそうです。それが今は「1ドル=2.9ペソ」です。ラッキーです。そう、同じお金で3枚買える計算です。とはいっても、高級店、油断
はできません。何しろこういう場面に弱い私です。あっという間に4枚のジャケット類を買ってしまいました。で、いつまでもいるともっと手を出しそうな自分が怖くなって、店を出ました。
翌日、出発までの時間を・・・、そう、またそちらのお店に向かいそうで、強い意志が必要でした。ぐっとこらえて、最後においしいシーフードの昼食をいただいて、またまた田舎町オキナワに戻りました。6泊7日のシーフード三昧の一人旅でした。
おちよ
ボリビア通信(79)(→2003/6/8受信)
サンチャゴの空港からさらに南へ2時間足らず、そこは南米もかなり南の果てに近い湖水地方でした。青年たちはもっと南の南極まで出かけたり氷河で水割を飲んだりするようですが、私はこの寒い時期にこれ以上南へは行きません。飛行機の降り立った街はまるでヨーロッパのアルプス。そこからタクシーで約30分、家はまばらで本当に静かな田舎なのに、道路は広くてまっすぐ、片側3斜線のハイウェイをプジョーは軽快に走ります。やっぱりチリはすごい国です。
ついたホテルは湖畔の小高い丘の上のこじんまりした個人経営風だけれど、ゆったりしたやはりチルのスタイル。で、窓からは湖とその向こうに大きな教会。雨模様だったので散歩はあきらめて窓からの風景を楽しみました。暮れていくにしたがって湖の向こうの外灯の電気が水面にきらきら光ります。
出歩くのが億劫でホテルの食堂の窓辺に陣取って、ここはもう目のぜいたくをすることに決めました。小さなホテルだと思ったのに、本格的なお料理とサービス、食器も素敵で、思わず皿の裏を見たら、 made in Chile 、ウェッジウッドかと思いました。3グループぐらいが夕食を楽しんでいました。
結局、チリワインとシーフード、カクテルをいただいて2時間あまりぼんやりと水面に浮かぶ光を見ながら、「ボランティアに来て、こんなぜいたくしていいのかなぁ。」なんておもいながらグラスを・・・。
バスは9時に迎えにくるというので、8時半ごろチェックアウトにフロントに行くと、なんと、あんなに静かだったのにあちらからこちらから宿泊客が出てきて、みんなでバスに乗り込みました。なんと20人くらいの団体になったのでした。スペイン語がイマイチの私のためにガイドのおじさん、私のところまでわざわざやってきて英語で話してくれる。湖を左に、その向こうに雪をいただいたアンデスの山々(天候不良ではっきり見えなかったけれど・・・・。)を見ながらバスと船を乗りついで約4時間の旅です。そこの湖畔で一泊、翌朝再びバスに乗って国境です。小さな建物で入国審査を受けて再び船。窓からのんびり外を見ていると、カモメかな?鳥が船についてくるのです。飛んできては前まで来て水に降り、船が通り過ぎるとまた飛んできて前に・・・・。なんといかわいいやつなんだろう。と思っていたら、船内の写真を見ると船の客がデッキで餌を差し出して鳥がそれを食べに来る。そうなんです、このカモメもどきは何かもらえると思ってついてきているのでした。わけがわかってみるとちょっと興ざめです。ま、のんびりした旅で、結局アルゼンチンの保養地、避暑地バリロッチェに着いたのはもう夕方。前日の朝からずっと一緒だった人たちと別れて私は支所長おすすめの素敵なリゾートホテルに入りました。ホッとしました。
何しろまるまる二日間同じ人たちと一緒だったのですが、みんなカップルか家族連れ、一人旅の私をなんとなく哀れんでいるような目線が何本も突き刺さっていたのでした。私は気楽な一人旅と思っているのですが、彼らから見るとスペイン語を話さない、女のヒトリモノ、直接コミュニケーションもとりにくい変なやつだと思っていたのでしょう。私のためにずっと英語で語りかけてくれたガイドのおじさんにカップルが私のことを聞いていたようです。みんなはバスで町のホテルへ、私は迎えの車で湖畔のホテルへ、ほんとホッとしたんだよ。部屋からはやっぱり湖と頭に雪をいただいたアンデスの山々が見えました。
おちよでした。
ボリビア通信(78)(→2003/6/4受信)
チリと言えば、南米では「シーフードの宝庫」なのです。お魚の大好きな私です。これはもう・・・・。ところがここではたったの一泊。ということは夕食のチャンスは一回しかないということなのです。さぁたいへん。今夜は何を食べようか。
ガイドのお兄さんに聞きました。「シーフードが食べたい。」「いいレストランがあるよ。」「日本のレストランとかおすし屋さんは?」「それもある。」「どちらがいいかなぁ。」「もちろんチリ料理さ。一番は『ココ』だよ。」というわけです。さぁ困った。
ホテルのフロントで聞きました。「日本料理のいいレストランは?」「はい、これです。」とコンピューターかな、すぐにチェックしてプリントアウト。「シーフードは?」「それならここです。」とまたまたプリントアウト。それはガイドのお兄さんと同じ『ココ』でした。
なら、ここはチリ、やっぱり『ココ』だな。と決めて、ちょっと早いけれど下見を兼ねた散歩のつもりで地図を頼りに歩いてみました。ない。あるはずのところまで歩いてもない。右へ左へ、うろうろうろうろ、なにしろここんところひざが痛いのに、いくら歩いてもない。ちょっと腹が立ってきたけれど、ここで後へは引けません。ホテルへ帰って聞きなおすのも私のプライドが許しません。ちょっと休憩して、もう一度歩き始めます。あきらめかけたころ、やっと見つけた『COCO』の看板。なんと、東西南北の方角なんて嘘っぱちの地図だったのです。
開店は8時だけれど、今7時45分。なんと2時間近くうろうろしていたようです。それでもめげなかったのは、もう食べたいと言う食い気だけ。お店の前でお掃除している恰幅のいいおじさん、「まだ?」と言う私のゼスチャーに、「いいよ、いいよ、入りなさい。中で待ちなさい。」と、スペイン語で・・・・、多分そういったようで、私は喜んで中へ入りました。座ってすぐにテーブルの下で靴を脱ぎました。足がとても喜びました。
おじさんの勧めるカクテルをいただいて、さぁ、何を食べようか。前菜のところにどうやら「生カキ」「生ウニ」らしき文字。期間が限定してあってどちらもOK。う〜んん。そのとき、先日チリから帰ってきた人の肝炎で黄疸が出てまっきっきの顔を思い出したのです。やっぱり貝は危ない。なら、ウニだ。
やってきたウニを見て、「しまった。」。そういえば去年、青年たちはチリへ行くとき「マイわさび」「マイ醤油」と言っていたのです。そう、ココではせっかくの生ウニもたまねぎや週種類の野菜をみじん切りにして酢と何かで作った薬味のようなソースで食べるのです。しょうがないので試してみたけれど、やっぱりウニはわさびと醤油です。せっかくの風味が出なくて悔しい悔しい思いでした。
でも、えびもお魚もおいしくいただいて・・・・・・・・・。ウニとシーフードに大満足のおちよでした。
前回のサンチャゴの街は、日曜日の朝9時半ころの写真です。本当に人通りがないのです。日曜日、お昼ころになってもあまり人が出ません。何しろほとんどのお店が休業です。きっとプラサや教会のあたりには人通りがあるのでしょうけどね。
ボリビア通信(77)(→2003/6/2受信)
飛行機でたった3時間、そこはボリビアとは全くちがった光景でした。
先日亡くなった永子さんに「ボリビア以外を知らないままに日本に帰らないでくださいね。」といわれて立てた計画でした。ボリビアと隣国パラグアイしか知らなかった私に、帰国を前にして、「ボリビア以外を知らないで南米を語ってはいけません。」という言葉で、やっと時間を見つけて出かけた6泊7日の旅は、チリのサンチャゴからのスタートでした。
飛行場の駐車場。迎えに来てくれたドライバーの車はプジョーのセダン。周囲を見渡すと、プジョー、フィアット、ベンツ、シトロエン等々、日本ではあまりお見かけしないヨーロッパの車たち。それもボリビアみたいにどっかから中古車を運んできたわけじゃない。れっきとした新しい車たちです。
町への道を走ります。片道5車線の広い道。そのうち外側から3車線のところで所々スペースをあけてブロックが打ってあるのは、バスの優先道との区別だとか。
ドライバーさん、いろいろ説明してくれるのだけれど、私のスペイン語力のおそまつさに参っていたようです。それでも笑顔でホテルまで説明してくれました。町並みはほとんどヨーロッパ。落ちついた並木道と、おしゃれなショッピングセンター。歩いている人たちもネクタイ、スーツ姿の多いこと。この違いはどこから?
明るいフロント出迎えてくれたのは若くて、きれいな英語を話す青年ホテルマンたち。
あまり時間のない旅だったから、タクシーと個人のガイドをお願いしました。3時間で30ドル。ちょっと高いけれど、こういう場合はこれが一番。やってきたガイドはサンチャゴ大学で、日本語を学んでいる青年。片言の日本語と流ちょうな英語でサンチャゴの町を案内してくれました。彼の言葉の端々から、自分の国に誇りを持っていることが伝わってきます。
チリ、サンチャゴの問題点。一つは周囲を山で囲まれていて、空気の流れがとても悪い。車の排気ガスで空気の汚染がひどい。見晴らしのいい丘に登っても遠くがかすんで見える。なのにある高さから上の山はくっきり美しい。町中に汚れた空気が沈殿している感じ、いろいろ対策を立てているけれど、今のところ効果はあがっていない。
もう一つ、チリ全国民の3分の1が、首都サンチャゴに集まっている。これはホント普通じゃない。だから、あらゆる分野での繁栄、発展がサンチャゴだけに集まっている。日本の東京なんか目じゃない。
いろいろ教えてもらったあとで「政治はどうですか?」と聞いたら、「They are doing well.」という答えが返ってきました。そうなんです。ボリビアじゃ、「この国で一番お金をもっているのはだれ?」って子ども達に聞いたら「政治家」って答えが返ってきます。「一番悪いのは?」ってきいたら、やっぱり「政治家」だって・・
・・。 この違いが国のようすの違いなんだろうね。
ちなみに日本は? おちよでした。
ボリビア通信(76)(→2003/5/23受信)
リオグランデの向こう側に渡って、車はほこりを上げて走ります。その間????。実はみんなでお昼ご飯。おにぎり食べていたので時間がわかりません。で、すう〜と舗装道路に入って、約一時間かな。これも実に不正確。サン・ラモンという町に住むただ一人の日本人。実は I さんのお兄さんがなんと、足の裏で病を見つけてつぼと薬草で治すという東洋医学の診療所を開いていたのでありました。
ボリビアで東洋医学だよ。最初は当地のお医者様たちの反発もあって大変だったそうだけれど、今では連日遠くから数十名の患者さんがタクシー使ってやって来るそうな。大忙しだ。すごいね。
でも、そんなことより、なんとその広大な庭では鳥やサルの放し飼い。えっ?
そう、オームだって、トゥカーンだって庭にいるんだもの。それも、かごの中じゃない。自由に遊んでいるんだけれど、人が近づいても逃げやしない。「朝早くか夜になるともっといっぱい帰ってくるんだけどね。」とのこと。見たことのない鳥がいっぱいいた。
サルだって、お茶飲んでる横で子どもを追いかけて走り回っている。手の中に入りそうな小さなサルだったけど、ホントに自分も人間だと思ってるみたいに一緒にいる。でもそれは女の子だけ。男の子のほうは警戒心が強くてなかなかなつかないそうだ。木から下りてきてからも私たちから5,6m離れたところで遊んでいた。
鳥って放し飼いできるんだね。すごい。
この写真の鳥は、わが庭にもやってくるけれど警戒心が強くて、いつも木の上のほうにいる。写真撮りにくかったのに、ここでは、手を出せばつかめそうなところまで近づいても逃げない。簡単に写真に収まった。ちょっとくやしい。 おちよでした。
ボリビア通信(75) 週末の小旅行(1)(→2003/5/22受信)
ガタン、ガタン、幅が4,50センチくらいの二枚の板。その上をカミオネーター(小型トラック?)が通ります。艀?いかだ?に乗り込みます。
そう、以前、お伝えしたリオグランデを車で渡ります。日本に帰る前に是非にと、I さんにお願いしていたのでした。その願いを聞き届けてくださって、週末に川向こうに小旅行、ピクニックに行きました。この川渡りに関してはこの方が一番と、固く信じているのです。誰でもいけるなら、おっちょこちょいの私です。とっくの昔に自分の車で渡っています。でも、さすがにあの板の上を渡る勇気がなくて、お願いしたのでした。
I さんは、川向こうに畑があって、毎日車かバイクでこの川渡りです。渡しのおじさんたちともすっかり顔見知りのようです。
水の中を、おじさんたちがやってきて、車の安全を確認してから艀を押し始めます。近くにいた子どもたちも次々に泥水の川に飛び込んで手伝います。白かっただろうパンツは泥で茶色になっていますが、そんなことにはホントに無頓着。元気な子どもたち。
ちょっと川下では大きなトラックが2台、やっぱりゆらりゆらりと渡っていきます。
乾季で低くなった川の水の中をおじさん二人が押したり引いたり。私たちは車から降りて、川面をなでる風を楽しみ、遠くを眺めます。車はあっという間に向こう岸に到着です。再び二枚の板の上、急斜面を乗り上げて車は向こう岸にたどり着きました。
さぁ、と思ったら I さんがいなくなりました。みんなできょろきょろしていたら、大きな魚の入った袋をもって帰ってきました。そう、このリオグランデでは漁もしていて、取れた魚を小さな小屋で売ってもいるようです。
まずは川を渡って、私の念願がかなってあってリオグランデの向こう側へ・・・。
大満足のおちよでした。
ボリビア通信(74)(→2003/5/17受信)
満月って、本当に明るいのですね。
いつもより遅くに町へ出たので、大急ぎで所用を済ませてオキナワへ帰るころはもうすっかり陽が落ちてしまっていました。ふと見上げると満月。雲ひとつない快晴。そう、モンテーロの街から約50キロは東へ向かって走ります。ほぼ正面に真ん丸いお月様。「やっぱりあれはウサギの餅つきだなぁ。」と思いながら、約30分、満月と一緒に自宅へ向かいました。100キロのスピードで外灯なんてまったくない道を走るのです。いつもなら自分のライトで照らす部分だけしか見えないのに、なんかいつもと違うのです。木立や高い草の陰がはっきり見えるのです。そう、満月って本当に明るいのですね。いつもは緊張の連続だけれど、今日はけっこう「うさぎの餅つき」を楽しみながら走るゆとりです。すっかりいい気分で家に着きました。
で、荷物をといて、ホッとしていると、玄関に人の気配。JICAの青年ボランティアの若い先生でした。「先生、月食です。ボリビアのニュースではけっこう大騒ぎしているのですが、生徒たちが『堤先生はきっと知らないよ。教えないと。』と言ってました。ご存知ですか?10時3分からです。」とのこと。さすが!二年近く付き合ってると、私がスペイン語ができないからボリビアのニュースを見てないことを子どもたちが察知したようです。すごいねぇ。よろこんでていいのか・・・?????
で、10時、外に出てみた。少し雲が出ていたけれど、真ん丸いお月様がくっきり。それならじっくりと見てやろうと、デッキチェアを外に引っ張り出して、ジントニックを作って、カメラも用意して・・・・。万全を期してボリビアの夜空を見上げました。
すごい、かっちり10時過ぎ、お月様は右のほうから少しずつ消えていきました。はじめは雲に隠れたのか?って、ちょっと信じられなかったけれど、どんどんとお月様が小さくなっていきました。ここボリビアは晩秋、ちょっと寒くなってきた(何しろ、短パン、Tシャツです)けれど、ここであきらめるわけにはいかない。わざわざ教えてもらったんだから。
そう、お月様がどんどん小さく細くなっていくにつれて、ジワ〜ッとお星様がいっぱい見え始めたのです。お月様の明るさで小さくなっていたお星様たちがどんどん表舞台に出てきたようです。それはもう、空いっぱいに、星、星、星、星、星・・・・・。お月様とお星様、不思議な関係です。で、とうとうお月様はちょっと汚れたゴルフボールのようになりました。その分、きらきら輝きだした星たちです。お酒も写真もおいて、しばらくは見とれておりました。
体がブルブルブルときて、手足はすっかり冷たくなっていました。時計を見ると11時半。こりゃもうだめ。最後まで見届けるのはあきらめておうちに入りました。天体ショーは1時半までつづいたそうです。私はあれで十分。
お月様とお星様、かけ持ちデートのおちよでした。
ボリビア通信(73)(→2003/5/12受信)
毎朝、三羽そろって、私の方を警戒しながら見つめているのです。「おはよう」といいながら私はソロリソロリと近づきます。さりげなく斜めにちょっとずつ・・・・はっきりと見極めようと近づきます。やっぱりきょうも三羽で、こっちを見てます。駆け引きです。どこまで行けるか、どこまで行くと逃げるのか。一羽は逃げても、なかなかみんなが飛び立たないのはやっぱり大切な物があるのでしょう。
どうやら教員宿舎の庭の真ん中に巣を作ったのでしょうか。ここ数日前から、我が家の正面7,8m離れた所の土の上に「ふくろう」かな?私は勝手に「フクロウポコ」と命名してます。初めてここに現れたのは2ヶ月ほど前。それから庭のあちらこちらに姿をみせていたのですが、まさか何もない無防備なあんな場所でおうちを建てるとはね。
先日「ベビーイーグル」と、これも勝手な名前だけれど、顔が赤ん坊みたいな小さな鷹のような鳥というつもりです。あんまり大きな声で鳴き叫んでいたので表へでると、この「ベビーイーグル」が「フクロウポコ」をぐるりと取り囲んでいたのです。私の登場で、「ベビーイーグル」達は飛び去っていきました。
翌朝、「フクロウポコ」達が一羽もいなくなっていて、ちょっと心配。近くまでよってみました。ででっかい穴が地中に斜めにどこまでも続いていました。のぞいたけれど真っ暗で何も見えません。これが彼らのおうちでしょう。でも、もうどこかへ旅立っしまったのでしょうか。あんまり長居をすると帰ってこないかも、なんて・・・・・。気にしていたら、夕方一羽だけ戻ってきて、そして次の朝、再び三羽のポコ達が私を出迎えてくれました。ほっとしました。なんか親になったみたいな気分だねぇ。 おちよでした。
ボリビア通信(72)(→2003/5/3受信)
一週間に二回の私よりずっと若い人のお葬式はやりきれない。
永子先生は、病と闘い続けた後、ご自分でみんなに挨拶なさって逝ってしまわれた。
第二移住地のK氏は36才。交通事故だった。日本から来られた方の歓迎会とやらで、ずいぶんとお酒も入っていたようだ。移住地は南北に60キロ広がっている。それぞれの村の中心のほんの一部を除いては、夜はほんとうに真っ暗だ。広い道はついていても外灯というものは全くない。所々で遠くに家の明かりがポツンとついている。移住地から移住地への主要道路といえども、全くの暗闇。夜の運転はほんとうに怖い。私もできる限り夜の運転はさけているけれど、何度かお祝いの席なんかに出かけたことがある。だいたいの道のようすが分かっていても、真っ暗闇で急になにが現れるのか・・・・、と言う緊張感で何度もハンドルを握りなおす。収穫期で大きなト
ラックも荷物満載で走っている。整備のいい車ばかりじゃない。テールランプなんかついてないことが多い。いきなり前方に黒い影がみえて大きなトラックだったりトレーラーだったり、のろりのろりと走っている。つっこみそうになる。その上、今は乾期。砂埃はまるで深い霧の中に入ったようで、5m先は見えない。風がないと、その砂埃が舞ったままで一向におさまらないのだ。昼間でも何度も車を止めて前方を見据えることがある道なのだ。いつもは20分あまりで行く道も、今は30分以上の時間がかかる。そういう道なのだ。
飲酒運転についても、この国にも法律はあるのだろうけれど・・・・・。
「○○さんが、酔っぱらっていて、どっかにつっこんだ。」とか「○○サンが飲んで運転してどっかに落ちた。」とか言う話はしょっちゅう耳にするのだ。それでもみんな大きな事故にはならなかったらしい。今回は一人が亡くなって、一人が両足骨折で集中治療室という大惨事になった。
なくなったK氏は36才、まえからみんながお酒の心配をしていた。子どもは9才を頭に4人。奥さんのおなかの中にはもう一人。9才のS君は3年生。事態がよく分かってないようなようす。次男のHくんは1年坊主。雰囲気を感じ取ったらしい神妙な顔が悲しみを呼ぶ。
お父上は移住地のがんばった先駆者の一人。お葬式でのお父上の悲しみがジンジンと伝わってきた。なくなったK氏は、このみんなの悲しみを予測しなかった。
JICAのボランティアでも、一番の死亡原因は交通事故だそうだ。発展途上国の道路事情はどこでもここと同じなのだろうと思われる。気をつけなければ。
日本では飲酒運転の罰則が大きくなった。それも一つの対策だろう。でもなにより一人一人が、自分や自分の家族、周囲の人たちを大切にする気持ちを忘れないことだ。自分の事故、死が、どれほど周囲を悲しませ、困らせるかを予測することだ。
一週間に二つのお葬式と、一つの結婚式。ちょっと気持ちが落ち込んでいるおちよでした。
ボリビア通信(71)(→2003/4/27受信)
ボリビア通信(71)
その列は、一台の車とそれを取り巻く大勢の人たち、そして何台も何台もの自動車がその後ろに続いてやってきました。
第一日ボ学校の校長先生、永子さんの棺を乗せた車は、葬儀の始まる予定の時間になってもなかなかやってきません。家族や友人達がご遺体から離れず、出棺ができないとの話が伝わってきました。
奇跡はやっぱり起こらなかったのです。一昨年の11月、いきなり入院手術。永子先生はどうやら肝臓の癌が見つかって急に手術されることになったのでした。私が第二のヌエバ校へ行く日で、その日は少し遅くなったために第一日ボ校には立ち寄らずに帰ったのです。その夜、青年から永子先生の「明日入院します。」との突然の発表を聞いて気持ちが動転したことでした。
それから、長い長い入院生活。手術前に何度か町の病院でお目にかかったらあんなに元気だったのに、手術後のいろいろなトラブルで年末年始、なかなか元気なお顔がみれずにみんなでやきもき心配していたのです。
2002年2月、私の一時帰国の直前、元気なお顔を見かけて、私の留守中のピンチヒッターとして職場に復帰していただきました。その後少しずつ仕事の量も内容も増えて、みんなでお疲れのでないようにと配慮しながら、でも、やっぱりみんなが頼りにしてしまっていたのは先生のお人柄故でしょう。l
学校は実質校長不在のような状態で一年間。主任をおいたり急遽短期間の校長先生をお願いしたり。永子先生の校長復帰はみんなの望みだけれど、まだムリかなぁ。と。
昨年の12月、やはり一時帰国の私のところに届いた「永子先生先生、校長復活」のニュースに「お体、だいじょうぶかな?学校にとってはうれしいことだけれど・・・」と、心配していたのです。
2月に始まった新年度、永子先生の「もうだいじょうぶ。」の言葉と、精力的なお仕事にみんなすっかり安心してしまっていたのかもしれません。
3月下旬、「永子先生入院」で、みんなギクリとしました。でも、義理の妹さん(お医者さま)の「前の病気とは関係ない」という言葉に、みんなほっとしたものです。当時広がっていたデング熱だろう、という情報に胸をなで下ろして「みんなでもっと気をつけましょう、お疲れのでないように。」と確認し合いました。ところが熱が下がらず・・・・、再発という結果でした。
それから一ヶ月、学校の前の診療所と町の病院、一時帰宅を繰り返して、その間も学校のことばかり心配されて。「○○が効いたから、元気ですよ、明日には帰ります。来週から学校へ出ます。」なんて言いながら。でも、お医者様からはかなり厳しい指摘があったようです。
4月25日、第二移住地のヌエバ校で授業を終わった私にかかった電話は「ご家族が集まっているようです。」というもの。大急ぎで車を飛ばして帰りました。病室の前にはいろいろな人が集まって。義理の弟さんが「今、ちょっと落ち着いています。自分から看護婦さんに体を拭いてほしいとたのんで、今体を拭いてもらってます。」とのこと。ほっとして力が抜ける感じでした。ご自分から「家族を呼んでほしい。」といわれたのだそうです。
その日のお昼、子ども達の作った千羽鶴をもっていった主任の先生に、学校関係の資料を分厚い束を両手で差し出して仕事のことをいろいろ伝達されたそうです。とにかく仕事だいじで、学校がだいすきな方なのです。
「先生、だいじょうぶ、先生のがんばりで第一日ボ校は前向きのいい学校になってきてますよ。私も帰るまで一生懸命にがんばるからね。先生も一緒にがんばろうね。」といったら、私の手を握って「ありがとう、ありがとう。先生のおかげです。」って・・・、力強いしっかりした声でした。
奇跡は起こらなかった。その夜8時半、永子先生は逝ってしまわれた。安らかないいお顔のままで。
代表の弔辞「僕達のお母さんでした。」を聞きながら、目を真っ赤にはらしている中学生の男の子、泣きじゃくり始めた女の子。ボリビア人の校長先生は弔辞の途中でとうとう声を出して泣きだしてしまった。みんなみんな泣いた。悲しかった。悔しかった。
焼香も延々と続いた。
親族代表の挨拶にたった義理の弟さんも、途中で号泣、代わりに挨拶しようとした義理のお父さんも泣きだしてしまって・・・・。
4月26日、ほんとうに悲しい悲しい、悔しい悔しいオキナワの一日でした。
おちよでした。
ボリビア通信(70)(→2003/4/9受信)
2003年4月7日はあの「鉄腕アトム」の誕生日だったそうだ。
鉄腕アトムだったら、このイラク戦争で、どんな働きをしてくれるんだろう。アメリカにもイラクにも偏らずに、きっといい解決策くれただろうにね。
鉄腕アトムの誕生日ということでNHKを通じて日本の、世界のいろいろなロボット情報が伝わってきた。すごい進歩だけれど、やっぱり人間にはかなわない。アトムにはまだまだだ。二本足で歩くったって、ひざを曲げてへっぴり腰だ。対話やコミュニケーションができるといてもこちらの微妙な心は解さない。正確さはすごいけれどフェイント攻撃はできない。などなど、やっぱり人間の機能にはかなわない。まずは人間第一であることが大切だ。
集会で子供たちに「今日はアトムの誕生日」という話と、「ロボットはすごい進歩でどんどん人に近づいていく。でも、どんなに科学が発達しても人間の体が一番すごい。現実の世界ではまだまだ機会が本当の人間の体の一部には代われない。身体をたいせつにしよう。」という話をした。(1年生から8年生までいるから、みんなにわかる話は大変なんだぞ。)
次の日、子供たちが昼ごはんを食べているところに入っていったら、2年生のAクン、「せんせい、きのうのよる、夢でアトムに会ったよ。『お誕生日おめでとう。』って言ったら笑ってたよ。」と教えてくれた。このAクン、最近、お父さんが仕事で留守が続いている、不安定で投げやりになったり、乱暴したりで先生たちがちょっと心配していた。そう、この話が本当かどうかはわからない。ただ彼は私に「せんせいのおはなしをちゃんと聞いてたよ。わかったよ。」のメッセージをくれたわけだ。で、私はホッとしてうれしかったのでした。
「ぼくは無敵だ、鉄腕アトム。よいこのために戦うぞ・・・・。」というこのテーマソングを知っている人はもう少なくなったんだろうなぁ。
私がテレビで初めて見た「アトム」は、子役の少年が演じていた。実写だ。ずいぶん昔の話だね。はっはっは・・・・。いつか本当に鉄腕アトムみたいなのが登場するのかな。
おちよでした。
ボリビア通信(69)(→2003/4/9受信)
バグダッドが無政府状態だそうだ。あのあたりはとにかく民族的にも宗教的にも難しい地域だということくらい私でも知っている。喜んでいる人たちがいる一方で、やっぱり腹を立てたり悲しんでいる人も多い。「戦争は最終局面」という中で、記者団のいるホテルが攻撃されて報道関係者の死亡も伝えられている。
戦争は、人と人との憎しみあいを増幅すると思うのだけれど・・・・・。サダム・フセインだって、このまま何もしないでどっかで隠居生活に入るとは思えない。あれだけアメリカを憎んでいた人間が何もしないまま降伏するとは思えない。。○○人死亡とか、負傷とか聞くと、きっとその怨念が報復になるのだろうなぁ、なんて思いながら・・・・・。
戦後の話もアメリカは「自分たちが血を流したのだから・・・・。」と言い始めている。今度も小泉さんは「支持する」といい続けるのでしょうか。
ここ数日は 連日のイラク戦争関連ニュースで、ちょっと参っいた。砲撃の音がドスンとするたびにと頭がズキンとするような気がしていたさぁ、世界はどうなっていくんでしょう。日本は?
南風が吹いて、寒い季節がやってくる。
そう、ここでは反対。「スールSUR(south,southern)がふく。」というのはここでは「寒い。」の同義語です。数日前からどうやら時々スールが吹いているようです。
ここ職員宿舎でも一番新しくていい家(ということになってます。)である私の家は、なんと北向きに立てられているのです。この家に入居するとき、日ボ協会の会長さんが、「先生の家は暖かいように北に玄関をつけてあります。スールが入らないように。」と自慢そうに言われたものだ。
ここんとこ、デング熱にやられる人があちらこちらにいるもんだから、みんな寒くなるのをちょっと待っていた。蚊がいなくなるものね。でも、収穫の問題もあるし、複雑な思いだ。でも、そろそろ大豆の収穫も始まったようで、やっぱり「蚊」優先だね。
日本はいよいよ春本番。入学、進級の希望の季節。若者に語りたい、夢や希望。
おちよでした。
ボリビア通信(68)(→2003/3/30受信)
デング熱が猛威を振るっている。病院には次々と高熱の患者がやってきて入院、点滴・・・の状態。領事館からのFAXによると報告数だけでサンタクルスでデング熱400名、出血性デング熱(皮膚から血が噴き出すのだそうだ)4名だとか。大変だ。
直接はうつらない。小さな蚊がもってくる。役所は、放置したバケツとかビンなんかに水がたまっているのに要注意の大きなポスターをあちらこちらに貼っている。消毒もしている。でも、排水があちらこちらにたまっている。流れない排水溝がいっぱいある。道があれているから、クルマが走った後の車輪跡に何日も水がたまっている。
「この方が深刻だろう。ちゃんと排水溝を整備しろよ。」といいたくなる。わが教員宿舎だって雨が降ったら何日も水がたまったまんまなんだから。
とにかく、大変なんだそうだ。なのに、お医者様はストライキだって。「給料を上げろ!」と医者と教員がストライキしてるそうだ。
てなぐあいで、やっぱり大変な国のようです。
先日、「JICAの緊急会議。治安の説明会」というのがあって出かけた。いろいろなお話があった中で、ここボリビアの政治の現状・経済事情の説明があった。出てきた話は,「IMFには見放された。」とか、「税制が確立していない。」「国民の85%が貧困層で、彼らの総生産が25%」とか、先の見えないくらい話ばっかり。なんか、ほんとうにくらい気持ちになった。このままではこの国は経済的な見通しはない。
子ども達にどう「夢を持て!」と教えるんだろうか。ほんとうにぐんと落ち込んでしまった。この国に未来はあるのだろうか。う〜んんんんん。
例によって、朝4時過ぎに起きて筆を持つ。「取」という字の第一画目をかいたところでスウーッと電気が消えた。ほんとうにスウーッという感じだ。カーテンを開けて外を見る。真っ暗。けっこうすぐに回復することが多いから、そのまましばらく待つ。なんの兆しもない。しゃあないなぁと思い、手探り、すり足で懐中電灯(武聡、ありがとう、役に立ってるよ。)を求めて歩く。非常ボタンだって消えている。なんにもならへん。電源を切るのも強盗の一つの手段と言われているから、ちょっと気をつけながら様子をうかがう。窓からどちらをみても真っ暗。どうやら村中の電気が消えている。ちょっと安心して(????)懐中電灯の明かりでろうそくに灯をともす。でも、これで筆を持つ気にはならない。ぼんやり窓の外を見ていたら、6時前くらいからほんのり明るくなってきて、どんどん視野が開けてきた。6時半頃、もういらない頃、電気は回復した。
翌日日曜日朝6時半(日本時間日曜日夜7時半)またまた、スウーッと消えた。日曜日のNHKは、みんな楽しみにしている時間帯だ。その日はとうとう3時間余り消えたままだった。みんなの楽しみ「宮本武蔵」はとっくに終わっていた。
電気がないと、テレビ、ビデオ、音楽の楽しみはアウト。湯沸かしも電気だからお風呂も入れない。8時半頃、いつもよりたくさんの人たちが教会へ向かっているように見えた。
と、電気事情でした。
うん、ときどき断水もあるよ。 おちよでした。
ボリビア通信(67)(→2003/3/26受信)
アメリカ人が嫌いになりそうだ。
イラクで市場が爆撃にあって市民10数人が命を落とし、30人以上が負傷したとの報道の直後、アメリカ、フロリダでの大統領演説の場はお祭り騒ぎ。大統領の演説の本論に入る前、誰がここに来たとか誰が応援しているとか、そんなことでいちいち大衆がピーピー口笛を吹き、拍手喝采。自分たちがはじめた戦争で、自国の兵隊やイラクの人たちが命を落としたり大怪我をしているそのときの集まりだ。そんな事態か。
ホントにブッシュ大統領がバカに見えた。居並ぶアメリカ人たちがオニに見えた。
戦争がはじまってからもう一週間。人間のおろかさだけが目立つ。
それを支持した日本の政治家たちは、いろいろな討論番組でも分が悪い。当たり前だ。そのくせ、戦後復興だの人道支援だの・・・・。それでごまかそうとしている。
本当にアメリカの属国なんだろうか。悲しい国だなぁ。
世界の国々はもっと理性的な、賢い大人たちで動かされていると思っていた。でも、このアメリカ大統領しかり、朝鮮は、自分たちがミサイルを発射しておいて日本の情報探知のための衛星発射に神経をとがらせて『戦争大国』と騒いでいる。アホとしか言いようがない。ボリビアでは、先般の暴動の復活支援のために日本が数万ドルの提供をした。その贈呈の文書を大使が読んでいるそのさなかに、式典から立ち上がって部屋を出て行った副大統領ともう一人の閣僚に『非常識」との非難が新聞で報道された。といっても大事にはならないようだ。
もっといい話題を書きたいのだけれど、連日の戦争の報道を見ているととても楽しいことは書く気にならない。 ごめん。 おちよでした。
ボリビア通信(66)(→2003/3/18受信)
今、午後の授業のための教材を考えながら、隣の部屋のNHKニュースを聞いている。
日本は、悲しい運命の国なんだなぁ。とつくづく考える。単に戦争を反対するだけなら簡単なことだけれど・・・・・、戦争は本当にいやなことなんだけれど・・・・・。
第二次世界大戦で世界から「お前は二度とけんかするんじゃない。約束しなさい。」といわれて、アメリカの仲間に入れてもらった。ちょっと頭のいいことと、持っている土地の場所的条件がいいことで、けっこうアメリカからはかわいがられて、なんか対等に付き合ってもらってきたように見えるけれど、やっぱり、ボスの言うことを支持しなければならない「下っ端」だったんだ。
小泉さんは、苦渋に満ちた顔(と私には見えた)で、「アメリカ支持」表明した。
そのあと、アナウンサーが「日本国内でもテロの起こる可能性がある。警備の増強を・・・・」なんて、とんでもない言葉を聞いた。少数派、そして無茶を押し通すアメリカに賛成することで日本国内にも「テロ」の心配をしながら、それでもアメリカを支持しなければならない国なのだ、私の国日本は。
アメリカの大統領選びに私たちも参加させてもらいたい。と心から思ったおちよでした。
ボリビア通信(65)(→2003/3/15受信)
あの黒いかわいくない鳥は「衛生班長」と呼ばれているようです。正式名は不明ですが、ここらあたりでは「スッチャ」と呼ばれている鳥で、何でも食べる。そう、腐った物、人が後かたづけしないで放っておく動物の死体なんかをきれいに食べてくれる、このどん欲な鳥に、コロニアの人たちは「衛生班長」と命名したようです。
「うまい!」と思わず叫んでしまいました。でも、これはちょっと昔の人しかわからないかなぁ。
昨日、授業と授業の合間の5分の休憩時間。いつもならすぐに子供達がやってくるのにいつまでたっても静かな教室。どうしたのだろう、と思っていると、「先生、K先生が、ヘビがいますよって、つつみ先生をよんでます。」と一人の生徒。
ん?ヘビ?また私の嫌いなことを知っていて・・・・・。気が進まないけれども外へ出てみた。沖縄県からの派遣教師で任期満了、来週に日本に帰るK先生が、トラックの荷台に立ってヘビのしっぽをつかんでいた。頭は地面にたれていた。だから約2m。「ガラガラヘビですよ。」と尾の部分をふって見せてくださった。カタカタと乾いた音がした。死んでいた。「先生が轢いたのですか?」と聞いたら、「いやいや、僕だってそれはいやです。子供を送っていって、ほんの20分足らず、行きはいなかったのに、帰り道にのびてました。」とのこと。と言うことはこのあたりにはこんなのがけっこういるわけだ。まいった、まいった。子どもたちは、さわってみているが、私はとてもそんな気にはなれない。「日本にもって帰りたいなぁ。いい土産なのになぁ。」と派遣教師のK先生。「えっ。」と私。「先生、もって帰ったらいいよ。」と子どもたち。
一騒ぎの後、授業。
授業後、職員室に戻ったら、K先生、5センチくらいの螺旋状になった棒を見せて、、「これだけもって帰ることにしました。」よく見ると、ガラガラヘビのあの尾の部分。振るとカラカラと乾いた音がしていた。
写真は撮らなかった。あまりその気にはなれなかった。その代わり、その後校庭の花の上を舞っていたチョウチョ、帰り道の「友情」をどうぞ。 おちよでした
ボリビア通信(64)(→2003/3/8受信)
「鳥の団地」のあの黒い鳥の風貌は、ちょっとかわいくないと、あまり皆さんのお気に召さなかったようです。
とにかくいろいろな鳥たちが目を楽しませてくれます。最近はクルマで走っていてもゆっくり、キョロキョロです。週に2回のヌエバ校からの帰り道も、以前はまっすぐ前を向いて早く帰ろうとしていたのに、最近はトロトロ、のんびりです。20分あまりで行けるところ、3,40分の校庭になっています。毎回新しい鳥に出会うのです。ま、とにかくここは元ジャングル、野生の王国です。
昨日は、往路で車を止めること3回。写真を撮るためです。止めなかったものの、びっくり一回。それは前方になんか黒い陰、トカゲかワニか。でもあんまり動かないから木の切れ端かと思っていたら、5,6m間で近づいたとき、急にUターンしてすごいスピードで草むらへ消えていきました。体長5,60cmのトカゲかワニか・・・・・。一瞬のことでした。先日、一週間ほど前は、いきなり黒と白のイタチかな、4,50cmくらいのきれいなののが飛び出して、一瞬轢いてしまったかと思って、どきり、車を止めようとしたら、隣に乗っていたせんせいが、「だいじょうぶ、逃げていきましたよ。」と、ほっとしたものです。
時間があれば、庭にやってくる鳥たちを眺めています。鳴き声もおもしろい。それでは、今日は、我が庭にやってくるかわいい鳥の姿をご紹介。(この写真、けっこうむずかしいんだよ。くろうしたんだよ。)名前は、ここでは調べるすべもないので(スペイン語、わからないしね。)自分で勝手に命名して楽しんでいます。
おちよでした。
ボリビア通信(63)(→2003/3/7受信)
虹をくぐって、小さな子供の心になっていた私です。
でも、日差しが強すぎてちょっと写真が暗くなりました。そんなこと考えているゆとりがなかったのです。「早くしないと、消えてしまうかもしれない。」ってね。
一眼レフの方は、もう少しいい写真が撮れているかもしれない。撮れていてほしい。いや、ま、ちょっと覚悟はしておけ・・・・・。と言うところです。
そこからいい気分でクルマを走らせていたら、こんどは{黒い鳥たちの団地」です。なんと、でっかい黒い、あまりかわいくない鳥たちが、ずらりと止まって、私の車なんかに反応もしません。ほんとうに道の脇、ずっと奥の方まで、とにかく、フェンス用の杭の一本に一匹ずつ、確実に座っているのです。またまた車を止めて彼らにカメラを向ける私です。ふと気がつくと、道の反対側の遠くの杭にも、やっぱり団地が見えました。住宅難なのか、所々で争いが起こって、追い出されたり、のっとったり・・・・・・・・・・。ここはもう実力の差だけがものをいう世界のようです。
おちよでした。
ボリビア通信(62)(→2003/3/7受信)
私は虹の橋をくぐったのです。
例によって片道100キロのサンタ・クルスへ出かけた帰り道。モンテーロの町の少し手前で前方の空がぐんぐん暗くなっていくのです。5時半をちょっとまわったところ、夕暮れにしてはちょっと早い。と思っているとフロントガラスにパラパラと雨。
こちらのこういうときの雨は半端じゃない。あっという間にバケツをひっくり返したような・・・、なんてもんじゃない、ドラム缶をひっくり返したようなすごい雨になった。ワイパーは高速にしてもとても間に合わない。前方はかすんで見えない。ライトをつけてとろとろと走る。片道一車線のこの道で、前に大きなトラクター、こんな時はどんなに焦っても追い越しはできない。
モンテーロの町を通り過ぎる頃、雨は通り過ぎたのか小降りになって、オキナワへの道に入る頃、すっきりした。と、いきなり前方にでっかい虹。それがあっという間に180度の完全な虹のブリッジ。私の行く手、道の左手から右手へ、「わぁぁぁ。」っと車の速度をゆるめる。虹がどんどん近づいてくる。我に返って、カメラを取り出した。消えないうちにこの「ボリビアの虹」を・・・・・・・。大きすぎてファインダーに収まりきらない。周囲を見回して(ここではこれがだいじなんだよ。)素早くクルマから出る。どうがんばっても全景はとれない。とにかくでかい。近いと言うことだろうか。
再びクルマにのって走る。虹はどんどん近づいてくる。右の前方に見えていた虹の足がどんどん横にせまってくる。前上方の大きなカーブはとうとう見えなくなる。
「あ、私は今、虹の下をくぐっているのかもしれない。」少し走って、車を止めて窓から外を見た。右手の足はまだ見えたけれど、後ろには虹は消えていた。
科学的に言えば、光と水蒸気の産物だから・・・。でも、私は確かに大きな大きな「ボリビアの虹」の橋の下をっくぐったのです。 おちよでした。
ボリビア通信(61)(→2003/3/5受信)
我が家の前に水鳥が・・・・?
ガゴガゴ・・・、と変な音で家の前の水たまりに目をやると、またまた水鳥の来訪です。
カルナバル(カーニバル)の最終日のきのうは朝から大雨。あっという間に職員宿舎は湖と化したのです。行き当たりばったりで建てた宿舎、後から付け足した道、等々のためにとにかく水はけが悪い。対策を考え始めてくれてはいるのですが、今回はまだまだ。やっぱり我が家だけがちょっと高い場所でそれ以外の低いところははしっかり水浸し。というわけです。
で、しっかり快晴の今朝、外へ出てみると少しは水位が低くなっているけれど、「あちらこちらに池」状態なのです。で、そこへなんと水鳥がやってくるわけです。(写真)
水鳥は鳥は鳥でも鳴き声が低くてかわいくない。と言われると私の声も低くてかわいくないか・・・・。
ちなみに世界各地でカーニバル。南米ではブラジル、リオが有名だけれど、ここボリビアもけっこう隠れた優れもののようです。オルーロやラ・パス、サンタ・クルスの街ではすごい盛り上がりがあったようです。リオのようにサンバではなく、民族の侵略と搾取の歴史の中から生まれた踊りのようです。
オキナワ村でも同じ色の衣装を着たグループが踊りながら前の道を通ってプラサに集まって踊っていた。見に行ったかって?
ここでは、この日は無礼講、水を掛け合う。それもきれいな水ばっかりじゃない。泥水、色のついた水、ペイント、何でもありだそうだ。私はそんなものぶっかけられても楽しめるほどの祭り好きじゃない。家でおとなしくしてた。
こんな時は、ゆっくりテレビと本と、庭にやってくる鳥や蝶達を楽しむのが一番です。かわいい鳥たちはこの次の機会に・・・・。 おちよでした。
ボリビア通信(59)(→2003/2/19受信)
JICAから緊急のFAX、電話、メールが次々に入ります。収まりかけていたコカ農民と政府との騒動が所得税の導入という新たな火種で再び大きくなったようです。
緊急連絡 2003.2.12
増税法案を巡って、労働者、経営者団体の全国レベルのゼネストが13日から予定されている。政府も本日まで方針変更は提示していない
本法案は国家警察も反対を表明しており、本日政府庁舎のあるムリージョ広場で軍隊、学生、警察の抗争があり、警官2名が死亡した。
今回の混乱をうけ、先月一応の沈着をみたコカ栽培農民の抗議行動にかかる協議はこの時点で中断されたため、農民による道路封鎖の抗議行動が17日から開始する声明が出された。
事態は悪化することが予想されるため、関係者に対し、以下の措置をとる。なお、下記措置は次回連絡まで継続する。
1 業務目的外の国内移動は禁止。不要不急の外出は行わない。
2 夜間の外出は禁止。自宅待機。
3 デモ行進や抗議行動の近くには近付かない。
4 自分の周りで何かが起こった場合は、自ら事務所の担当者に連絡する。
5 非常事態宣言や戒厳令が出る可能性があるため、それが発出された場合は続報を出すが、基本的には上記対応のこと。
以上
ただ、私が今回の騒動を知ったのは、NHKニュースの報道が最初、というずれようです。久しくボリビアの放送を見なかったせいか、我が家のテレビはボリビアの放送をうまく受信してくれません。
このJICAからのFAXを受けて初めて、ことの大きさを知ったくらいで、ここコロニアは表面は平和です。国は13日、全国に休業令を出したようです。学校も店もみんな休業、ラ・パスは空港が封鎖になりました。ですが、ここコロニアは普通通りに授業を・・・・・。この日、週末に行われる日本の国際交流基金の巡回セミナー(日本語教育の研修会)のために交流基金のメンバーが3名、大雨の中を事前視察にコロニアを訪問。彼らの情報によると、サンタ・クルス、最寄りの街モンテーロも比較的落ち着いていて、モンテーロでは開いている店も多かったとか。これまでも、ボリビアで騒動があっても、それは遠いラ・パスやコチャバンバでのことで、サンタ・クルス(コロニアから約100キロ)やコロニアではあまり影響がないと・・・・・・。あってもモンテーロ(コロニアから約50キロ、サンタクルス方面への最寄りの街)の道路封鎖くらいだと・・・・・。
で、巡回セミナーのメンバーを夕刻に見送って、夜、ボリビア人の食堂で今月末に帰国する青年ボランティアたちを送る夕食会。ケンタッキーよりおいしいフライドチキンでビールを飲んでいた。部屋のすみのテレビで暴動・略奪のニュース。よく聞けばサンタ・クルスの出来事。「えっ」 とテレビに注目。どうやら、サンタ・クルスでも大荒れのようすです。全国で16名の人が亡くなったようです。収拾のめどはついていないようす。ここ、コロニアでは大きな動きはありませんが、どうなることか。週末の研修会は開かれるのかどうか。
とにかく貧富の差の大きい国です。その大多数はやっぱり貧しい人たち。コカの栽培をやめさせるには彼らへの保障や代替えのしごとが必要でしょう。急に大きな増税は・・・。まだまだ組織や体制のしっかりしていない国なのです。政治も経済も、そしてなにより教育が。 大騒ぎのボリビアから おちよでした。
追記
どうやら、大統領は財政の建て直しに12.5%の所得税を発表したらしい。それで大騒ぎに。警官も、政治家は自分たちだけ甘い汁で、生活も思うままにならない我々からまだ取り上げるのか、とストライキ。街は無法地帯になったとか。軍の出動にあいなった。あまりの大きな反応に大統領が増税を撤回、「そんなに簡単にやめられるのなら、はじめから出すな。」と、再び怒った国民が大騒ぎ。テレビでは一日暴動の様子が流されていたようで、見ていた人の話では、略奪の大半は中学生か高校生の若者だったとか。騒ぎに乗っておもしろ半分に・・・。やっぱり教育でしょうか。
怒った民衆の矛先は大統領。ピンクの建物(以前に書いたと思うけれど、自分が指示する大統領候補のイメージカラーに自宅を塗っちゃてる。外から見て一目で支持者がわかる)は片っ端からやられたそうだ。その上この大統領に真っ向から反対している大金持ち(コカでもうけてる)が後ろにいるとかいないとか・・・・・。
で、13日は休業令で、すべてお休み。騒動はおおかた片づいて14日は学校だけは休業であとは普通の生活に戻ったとか。15日、ラ・パスはみんなでお掃除大騒動の後かたづけをする日になったんだとか。なんか、淡泊なんだねぇ。でも、火種は残ったまんまです。
ボリビア通信(58)
ロバが4頭。一列に道の傍らをゆっくり歩いている。車の私は後ろからゆっくりと追い抜いて前方少し離れたところで止まる。カメラをもって外に出る。早く近くへ来いとカメラを構える私を見て、ロバは一斉に止まってこちらを見る。動かない。う〜む、私は石になる。しばらく様子をうかがったロバたちが再び歩き始める。思うようなポーズは取ってれないけれど、ロバの家族(?)はのんびり歩き始める。シャッターを切る。のんびり家族は私の前をゆっくり歩いて脇の小道へ入っていった。
例によってサンタ・クルスの街へ出る。片道一時間半の行程。急ぎの用のない時は思いっきりのんびり走ることにした。いつもは80キロから100キロ、のろい車はどんどん越していく。でも、それではね。
ロバの家族を見送ってまたのんびりと車を走らせる。こんどはブタの親子。じっくり観察してカメラに納める。母ブタが深い草むらでえさを食べていてなかなか全部の姿を現さない。挙げ句の果て、さりげなく私のいる方から遠ざかっていく。ロバと違ってこちらを見たりしないけれど、反対方向反対方向へと移動していく。「ロバとブタ、どちらが利口なのかなぁ?」なんてことをまじめに考えながら車を走らせる。
週に2回の第二コロニアへのお仕事。これも帰り道は思いっきりゆっくり道の両脇を楽しみながら走ると、毎回違った鳥に出会える。でも、鳥は本当に写真に撮るのがむずかしい。とにかく近づかないと・・・・・。もうちょっと、もうちょっとと思って近づくと、何の前触れもなく一瞬に飛んでいってしまう。大きい鳥は飛んでもそれはそれでいい被写体だけれど、小さな鳥は一瞬で点になってしまう。何度くやしい思いをしたことか。「あ、シャッター切っておけば良かった。」ってね。それでも懲りずに鳥たちにカメラを向けている私です。
おちよでした
ボリビア通信(57)
白いTシャツはどす黒くなりました。顔も腕も熱さでヒリヒリしています。
新しい年度を前に、学校の大掃除をします。生徒たちに掃除と準備をさせる前に連日先生たちの自主的な取り組みです。とはいっても、いつの間にか先生全員がやってきて毎日、それぞれどっかの整理整頓、大掃除に取りかかってます。校長先生(一昨年手術で、まだまだ本調子じゃない。)も毎日朝から夕方まであちらこちらの整理です。私たちは図書室が気になっていたのです。虫にやられた本棚。古い図書。とにかく一度大掃除をしようと思っていたのです。
ここはボリビア、コロニア・オキナワ。当然のことながら、日本語の教材、図書は日本からしか手に入らないのです。図書室の本はすべて誰かからの寄贈です。直接寄贈されたもの。集めて送ってこられたもの。いずれにしても誰かの好意ある行為によるものです。だから、ここの人たち、先生たちは捨てられないのです。古いものでも、ぼろぼろでも、簡単に捨てるわけにはいかないのです。でも、それは図書室にどんどんたまって古くなっていくという結果を生んで、すごいことになっているわけです。ある一角は誰も手にしたくないようなものばっかりだったりして・・・・・。
そこで、「シニアの先生が勝手に捨ててしまった。」ということで、私なら捨ててしまえるだろうと、・・・・・・・・・・・・大整理。「この本は子供たちが手を出したくないだろう」と言う基準でどんどん焼却処分に・・・・・・・。少しましなものは箱に詰めて希望者にもらってもらうことにしました。その結果、校舎の裏で大きなたき火(?)です。あまりにも大量で、なかなか燃えないので一冊ずつ開いて燃やしました。で、いろいろわかったこと。悲しいけれど、日本人の心を疑ってしまいます。そんなに昔に送られてきたのでもないのに、落書き、破れ・・・。で、先生たちに聞いたところ、送られてくる本の中には落書きや破れて使い物にならない、あまりほしくないものもけっこうたくさんまじっている。そう、日本人の心の中に、救援とか援助とか言う言葉に自分のいらないものを送るという発想はないのだろうか。教師時代、私は子供たちに「自分がほしくならないようなものは他人には贈らない。」ということを基準に指導してきました。でも、実際は、いらないから捨てるものを、救援物資として送る傾向がないでしょうか。落書き、落丁の本を燃やしながら、「日本人の心、大丈夫?」って、ちょっと悲しかった。ここの先生たちはそれでも捨てられないで、大切に図書室においているのに・・・・・ね。
長い長い飛行機の旅のあと、またここに戻ってきました。帰ったらすぐに職員会議、町の行事、研修会と、私にぼけの時間を与えてくれません。ありがたいと思って仕事に復帰してます。泣いても笑ってもあと6ヶ月です。 おちよでした。
ボリビア通信(56)
交野天神はこじんまりしているけれど由緒ある神社。
元旦の朝、関西伝統の白味噌のお雑煮をいただいて、(今年は手抜きで中味は簡素)ちょっと寒いのをがまんして、ぶらぶらと初詣に出かけた。日ごろ歩いたことのない住宅の間の小道を方向を定めて適当に歩くのはけっこう楽しい。樟葉の町はおもしろい。古い町並みで、広い立派なつくりの蔵や屋敷がけっこうあちらこちらに残っている。で、その向かいは新しく開発された住宅地で、箱庭のような小さな家からおしゃれな豪邸までいろいろ並んでいる。そんな住宅の合間にぽっかりと畑があって、大根や白菜が元気に育っている。
お札を持った家族連れ、ご夫婦がすれ違う。そのことが、まちがいなく交野神社へ向かっている、と私に安心感を与えてくれる。近づくほどに人が増える。みんな家族連れ。親子三代、四代が一緒に連れ立って初詣。いいものです。足の悪いおばあちゃんの手をつないで歩くお孫さんらしい若い女性。車椅子を押す子どもたち。反対に孫の手を引く年配のご夫婦。みんなにこやか。神社の入り口で、羊のぬいぐるみをかぶった若者が芋を売っている、それも家族の楽しい話題づくり。
いつもは人気のない交野天神社も、元旦の本殿前はずらりと人の列ができていた。
並ぶのが嫌いな私も列の後ろについて神妙にお参りした。脇でお神酒の振る舞いをしっかりいただいていい気分になり、お札をいただいて再びぶらぶら歩いた。次々と家族連れがすれちがう。寒くて木々に葉はなかったけれど、桜の木には小さな新芽が、梅にはつぼみが膨らみ始めてやがて来る春を告げていた。
小さな町の小さな神社。お年寄りから子供たちまでみんなで初詣。日本の昔からのお正月風景。金髪、ツッパリの姿は見かけなかった。お神酒の力も手伝って、ほんとうに幸せな気分だった。
みなさんも、日本のお正月してますか?、
ちょっと遅くなりましたが、日本の元旦の報告でした。 おちよでした。
ボリビア通信(55)日本版
久しぶりに歩いた心斎橋筋は、すっかりようすが変わっていた。
以前と比べると、ずいぶんと華やかな雰囲気だ。「この不景気に・・・・・。」 と思ってよく見ると、店が変わっている。私の知っている30年来の洋品店とか靴屋さんがゲームセンターや薬屋さん、電話屋さん(?)になっていた。別の街に来たような気がした。個人の洋品店がなくなって、大丸の店舗が広がっていた。もちろんそごう百貨店は閉まったまんま。華やかなのは色合いが派手なだけで、なんとなく安っぽい軽い街になったのだ。 土曜日の夕方で人はかなりたくさん歩いていたけれど、歳末にしてはどのお店も人が入っていなかった。もともと繁華街なんかすきじゃないけれど、心斎橋筋はもう少ししっくりした街だった。
あぁ、失業率5・5%、中国がしっかり大成長をしている裏で、日本はどんどん沈んでいる。経済復興、不景気対策、と口先ばっかり必死だけれど、本当は「人の心の教育」の遅れの問題じゃないかと思っている。かつて日本人の美徳とされた、勤勉さ、まじめさ、正直さ、質素倹約、親孝行、奉仕精神、連帯感、などなど、みんな捨ててしまった。日本人らしさを否定してしまったわけだ。その結果、自分の国を好きじゃない人ばっかり。誇りをもてない状況だもの。いい社会なんかできるはずはないよ。どんな社会だって一人一人の人間が創ってるもんだ。人を育てないでいい社会なんかできない。
その上、みんなでよってたかって政治家や誰かへの不平不満ばっかりテレビで放送して、自分たちはどうなんだってね。バカなかるいお笑いや芸能ニュースばっかり流してる。どの局を選んでも、人を見下げてバカにする番組ばっかりだ。国民がよくなるはずないね。で、当然いい国になんかならないよね。
失業率が高いって言うけれど、海外からの出稼ぎや低賃金の労働者はどんどん増えてる。日本人のやりたがらないしんどい仕事を彼らがこなしてる。けっこう稼いでる。なりふりかまわなければ仕事はなくはない。でもプライド高き日本人はできないんだね。
さぁ、日本丸、2003年はどこへ行く。で、私は何ができるんだろう。さがさなければ・・・。
よいお年をお迎えください。 おちよでした。
ボリビア通信(54)日本版
京都三条、駅から地上へあがったとき、なんとも言えない懐かしい空気を感じて、自分でもびっくり、思わず360度身体が回転、それからゆっくり深呼吸した。
京都の本能寺に両親の骨を納めてある。時々お参りしないと罰があたるような気がして、出かけていく。今日も久しぶりに本能寺におまいりした。いつもどおりにあちらこちらのお参りをして、正門を出て、寺町どおりをぶらりぶらりとノンビリ歩きました。
と、小さなお寺に人だかり。通り過ぎたけれど気になって戻ってみると、せまい境内は人でいっぱい。そう、「冬至のかぼちゃ」がふるまわれていたのです。「え、今日って冬至?」 その日は冬至の次の日でした。でもどうでもいい。お参りしてかぼちゃをいただいて、しっかりお礼の上、ただ食いでは申し訳ない気がして一パック買ってお寺を後にしました。「日本っていいなぁ!」 と幸せを感じたひと時でした。みんなも食べたでしょうか、冬至のかぼちゃ、無病息災、無病息災。
さぁ、冬至も過ぎた、春に向かって日々、日の出が早くなっていく。うれしいねぇ。
おちよでした
ボリビア通信
久しぶりの日本は、ただただ物価の高さに驚いております。ボリビアの金銭感覚になじんでしまっているようで、野菜なんか、手にとってみて、金額を目にして一瞬元に戻したりしてね。はっはっは・・・・・・・。
それでも、お金さえ出せば、好きなものを飲んだり食べたり。行きたいところへいつでも出かけたり。ホント日本は恵まれたお金持ちの国なのですね。いろいろな意味でボリビアとは大きなギャップです。
空き家状態になっていた我が家も、電気が入り水道を流し、ガスで暖房が可能になって、やっとのことで電話が開通(072-857-0866)、一週間かかって人の住む家らしくなりました。ここで一月の中頃まで、のんびりと暮らします。1月10日すぎに東京へ、そして15日成田からボリビアへ、ラスト6ヶ月のお仕事に向かいます。
おちよでした
ボリビア通信(52)
エンジンの音が止まって、小舟は停止、ぐるるんと左にまわった。
ここはチチカカ湖の大海原(?)。何しろ、ガイドさんの「あれが最新式の水中何とかいう船です。あれでいくと、早くいけます。でもちょっと高いです。一人150ドルくらい。」という言葉を聞きながら私たちの船は、貧乏旅行で全長5,6mの古いモーターボートだもの。彼女の指さす方向にはちょっと豪華な水中翼船がさっそうと波を立てていた。
コパカバーナで船に乗るとき、「えっ、まさか。こんな小さな船で行くの!」と思ったけれど、そこは子供たちの手前堂々と乗り込んだ。乗り込むとき、ガイドのお姉さんが、乗り込んだお兄さんに「uno? dos?.」といってるのが聞こえたけれどそのときはあまり気にしなかった。乗り込んだのは若いお兄さんが一人。軽快(?)なタンタンダダダダ・・・・のエンジン音で船は『太陽の島』を目指して出発した。なにしろ一人が席を移動するのにも左右のバランスを考えなければ・・・という小型船だ。そこに我々8人とガイドさん、後ろで舵を操る若いお兄さん。
油断をするとすぐに息切れ。高山病に気をつけながら『太陽の島』に上陸。インカの説明を聞きながら深呼吸。腰を下ろして一休み。私の仕事の一部は子供たちのビデオ撮影。彼らの前に行く必要がある。でもあわてると胸が痛くなる。大変なんだよ。
『太陽の島』に2カ所上陸。持ってきたお弁当を食べて帰路に就く。半分くらいきたところで音が変なことに気づいた。さりげなく後ろを見る。二つのエンジンの間に腰掛けたお兄さん、片方を足で、片方を手で一生懸命になにかやっている。音から察するに、片方が止まっている。足で一方を操りながら止まったエンジンを再始動させようとしているらしい。でも、一人で四苦八苦。気がつくとガイドのお姉さんが心配げに見ている。「これはやパイのかも知れない。」と思ったが、ここはやっぱり子供の手前、動けない。それでも船は進んでいる。そのうちにお姉さんがさりげなく手伝いにいっ手、片方のエンジンを押さえていた。若者は一生懸命にひもを引っ張る。なんべんやってもかからない。約一時間の道のりだ。けっこう遠い。それでも少しずつ港がみえて、近づいてきた。このままなんとか行くか?とおもっていたら、あと10分位のところで、ブルルンブルルンというエンジン音を最後に、船は止まって左に旋回した。あ〜ぁ。なにしろあのチチカカ湖だよ。海の真ん中みたい。
港からこちらへ向かってきた、我々のよりちょっと大きな船が近づいてきて、そちらからおじさんが乗り込んできて、エンジンをかけた。エンジンはまた動き始めた。
でもなんか心許ない。でも、何事もなかったかのようにひとまず港へ向かった。少しすると港からかなり大きな船がお客さんをいっぱい乗せてやってきた。我々のボートにくっついてきた。ぶつかるのかと思ったら、エンジンを止めて、おじさんがこちらへ乗り込んできた。かわって若者が大きい船に乗り込んでいった。船頭交代というわけだ。
それから船は再び元気な音を立てて港に向かって走り出したのでした。めでたしめでたし。
船から下りてから、このことは一つも話題にならなかった。みんな心配してなかったのかなぁ。それとも思い出したくないの?
とにかく広いんだ、チチカカ湖。何時間車が走ってもまだまだ続いてる。ほんとに海みたい。ほんとにこんなに高いところにこんなに広い湖があるんだねぇ。で、ポツンと小さな船が漁をしていたりする。おもしろいねぇ。 おちよでした。
予測はしていたけれど、「いよいよきたか・・・・・・!」という思いで、長嶋さんの退任の報道を見つめました。複雑な思いです。あのピシッとしたユニフォーム姿はもうみられなくなるのですね。結局、私はもう生ではみられないわけだ。これで、私のジャイアンツ歴も終わりかなぁ。
日本では、号外がでたとか・・。手に入れて持っている人で、読んだあと捨てるのなら、とっといてください、私のために。
ボリビア通信、ちょっと待ってください。
コンピューターが一週間ぶりに帰ってきたのですが、公私ともに忙しく、ちょっと遅れます。
今朝は、6時半に集合してバスで2時間、サンファンで日系の子供たちのスポーツ交歓会です。
つつみでした。
ボリビア通信(51)
ここにきて、どれだけのシャッターチャンスを逃したことか。最近は車にいつもカメラを積んでいる。それでも、いつでもカメラを取り出せるわけじゃないし、状況や相手にもよるから、けっこう、「あっ、もったいない。」ということが多かった。でも、ラ・パスからティワナクの遺跡まで、チチカカ湖の周辺に至るバスの車窓は、ずうっと、シャッターチャンスの連続だった。アンデスの高地に文明を拒んで暮らし続ける農牧の民族は、赤い山肌の急斜面でも、緑のないだだっ広い平原でも、昔のままの生活を続けている。昔からの方法で耕作をしている。身にまとう衣装も写真で見たあの民族衣装だ。
なにもない山間に、よく見ると羊を連れたおじさんが犬と一緒に歩いていたりする。ちょっとした谷間に、太陽熱で焼いた煉瓦で作った粗末な小さな家がポツンと建ってていたりする。こんなところに、と思うような急な斜面でも、家族で畑を耕している。急にリャマの集団(飼いリャマの場合もある)が走っていたりする。
でも、写真はあまり撮れなかった。生徒たちと一緒だからと、一眼レフは持っていかなかった。ビデオカメラとデジカメ、その上、けっこう急いで走っているバスの窓からだもの。だから、シャッターチャンスは失いっぱなし。あの日から、ここコロニアでの写真のチャンスなんか、何のこともない。写真への関心が一気にうすれてしまった。ここ、コロニアはそれほどボリビアっぽくないんだということがわかってしまったのだ。 おちよでした。
ボリビア通信(50)
修学旅行二日目は、スクレから空路ら・パスへ。まずは高山病対策。飛行機に乗る一時間ほど前に、子供たち、引率の先生、みんなでバッファリンを一錠ずつ(こいつが一番よく効くんだそうだ)飲んだ。飛行機を降りたら例によって、ソロリソロリ、時々止まって深呼吸。
迎えにきたバンは、そのまま日本大使の公邸へ。すごいねぇ。日本大使の公邸では予想に反して何のチェックもなく、車はそのまんま玄関へ。最近は、ここボリビアだってすごい厳重な警戒なんだぞ。大使館なんか、JICAの職員でも一人ずつチェックされて入るんだそうだ。なのに、大きな重い門が開いて、我々の車はまっすぐ玄関へ。で。車を降りると、そこに出迎えたのは大使夫妻。
すご〜いゲストルームでお茶をいただいて、子供たちは緊張緊張。大使夫妻がいろいろ語りかけてくださるけれど、あんまり盛り上がらない。ま、しゃあないか。
それからお食事。奥様が直接献立をたてて作らせたとかの日本料理、いや春巻きがあったから中華もまざってた。カレーライスを中心に豪華なお食事だった。大使夫妻を交えての昼食会。これもちょっと緊張気味だった。食後、奥様が「庭にでましょう。主人の好きなお庭で写真を撮りましょう。」というわけで、庭の散歩。鯉や猫に相手になったり花を見たり、いろいろ語りかけてくださるので子供たちも少しずつくつろいで会話が進んでいた。
この公邸、昔のボリビアのお金持ちのお屋敷を日本政府が買い取ったのだそうだ、広い敷地に豪華な家だった。家の正面上には「菊のご紋章」。それをバックに記念撮影。
在ボリビア日本大使の佐々木氏は優しそうなおじさん。奥様は、アメルダ婦人のような華やかなルックスだけれど気さくで積極的。こういう職業(?)の人との交流はこれまであまりなかったけれど、いい人たちだ。すくなくとも人間的で人を見る目にも優れている。まだほんの数回の訪問しかないのに、コロニアオキナワの欠点もさりげなく指摘しておられた。
コロニアからの5人の子供たちの修学旅行。これくらいのことに大使夫妻は半日をつぶして子供たちの思いで作りににつきあってくださった。散歩の後のデザート、アイスクリームは奥様の手作りだったとか。政府の関係の地位の高い、偉い人,、私はこういうたぐいの人たちとのおつきあいはごめんこうむると思ってきた。でも、ちょっと偏見だったかなって反省した。
おちよでした。
ボリビア通信(49)
パラパラと音がして上から砂がおちてくるのです。その横を歩いて、今年もスクレのセメント工場、石切り場(?)の恐竜の足跡を見に行きました。今年はここの専属ガイドということでより近くで、より丁寧な説明がありました。でもその間も、風が吹くと、パラパラがバラバラザーザーに変わるのです。もろに頭の上から砂、というより小石が降ってくるのです。日本なら、遠巻きに柵をめぐらせて・・・・、ひょっとしたら、風化しないようにドームのような屋根をつけて空調設備をしてしまうかもしれません。でも、ここはボリビア、子供たちは手で触ってみることもOKなわけです。
このでっかい遺跡の壁、すべてはセメント工場の所有です。内外の大学や国の調査団なんかが調査には来るけれど、誰一人保存とか、守るとかいう話にはならないようです。「そんな無駄なお金を使うやつは一人もいない。」ということのようです。おおらかな国、ボリビアです。
修学旅行の初日は、今年もスクレでした。でも、ガイドが違うと、結構違ったところを見せてくれるものです。ボリビア独立の舞台となった「自由の家」を見たあと、ガイドさんはプラサ近くの教会に入っていきました。中へ入るとそこは女子校、女の園です。で、そこでどうするのか・・・。手続きのあと、彼女はどんどん校内を歩いて階段をのぼる。そして屋上というより教会の屋根の上に出たのでした。なんと、そこからはスクレの美しい町並みが一望。どうやら、有料で展望のために開放しているようでした。これだって、日本じゃ想像できないね。教会の女子校だよ。どんなやからが入ってくるかわからんものね。でも、おかげで素敵なスクレの町が見れました。
おちよでした。
ボリビア通信(忘れた号)
昨日の朝、テレビの画面をぼんやり眺めていたら、「きんきゅうのおしらせ」という字幕が流れました。「せいねん、30代、40代の男性はライフル、○○○○をもって、Y・I さんのところへあつまってください。」と、字幕は何度もながされつづけた。
「なにかあったんだ。どうしたのだろう。」と思いながらも、サン・タクルスで行われる会議に出発した。途中、公民館の前には車がずらりと並んでいて、青年たちが集まっている様子。
午前の会議が終わって、午後の会議に出席のためにこられたコロニアのHさんがことの成り行きを伝えてくださった。強盗殺人事件。
コロニアの中心から4キロばかり離れたところ、町のはずれの老夫婦が襲われた。深夜の一時頃、銃を持った男が一人、老人は果敢にも立ち向かわれたようで、4発の弾が撃ち込まれたらしい。車を持たない犯人は、大したものもとらずにそのまま徒歩で裏のジャングルに逃走したとか。連絡を聞いて駆けつけた人たちが、老人を町へ運ぶ途中、車の中で息を引き取られたと・・・・・。亡くなった老人は、日ボ学校の2年生Kクンのおじいちゃんだ。言葉がでなかった。
先日も、町はずれの老夫婦が襲われて、縛り上げられて金品を盗まれた事件が発生
したばかりだ。あらためて発展途上国、移住地の現実を見せつけられた気がした。日
本を発つ前から、警告されていたことはいっぱいあったけれど、ここでののんびりし
た空気に、忘れていた。
先日も職員室で、奥さん先生が「主人が拳銃を買いたいと言っている。」なんて会話をしたばかりだった。ちなみにほとんどの男の人たちは車にライフル銃を積んでいるという。
集まった村の人たちは、ジャングルの4方から火を放つという方法で犯人を捕らえようとしたけれど、まだ結果はでていない。ショックの日曜日です。 おちよ
ボリビア通信(47)
9月27日(その2)
そう、みんな、視聴覚室へ集まったのです。合唱団の面々はすでに並んでいました。で、藤井先生の司会で団員からのお礼のメッセージ。たどたどしいところを見ると、その場でのご指名のようでした。でも心のこもった挨拶でした。もちろん藤井先生の同時通訳つきで。
あいさつが終わって、最初の曲は「HAPPY BIRTHDAY」。私の誕生日を知った藤井先生のまたもや心憎い演出でした。同僚たちからも花束やシャンパンで、その場は急きょ、私のお誕生日コンサートに。続いて合唱曲「大地讃唱(字が間違ってるかも知れん)」のプレゼントがあって、歌が終わると団員の面々から誕生日のお祝いの言葉と今日のコンサートへの感謝のことば、握手がいっぱいいっぱい続きました。
そのあと、次々といろいろな歌が続いて、最後は若いまりあ先生のためにと、「アベ・マリア」をたっぷりと聞かせてもらって、「さよなら」。けっきょく小一時間のミニコンサートでした。小さな会場で、ホールとはまた違った声の響き、歌う側と聞く側の一体感。本当にすばらしいひと時をもらって、思いっきり得をした気分でした。特に私には最高のコンサートとなりました。
で、コチャバンバへ帰るみんなを送って最後の仕事のために出かけて、ほっと一息。学校へ帰った私を職場のみんなが待っていてくれました。そこでまた、小さなバースデーパーティ。わざわざ自分で作った花束を持ってきてくれた、コロニアのお姉さん(?)もいて・・・・・・。花とケーキに囲まれて幸せなひと時をすごしたのでした。
ケーキにはしっかり56のろうそく。ごまかしはきかない年です。
と、ボリビアでの私のひとつ年を重ねる儀式は、本当に記憶に残るものになりました。地球の反対側にきても、たくさんのすばらしい人たちに囲まれて、「出会いは宝物」かみしめた56回目の9月27日でした。
忙しい数日の後、たいへんだったけれど、心地よい疲れと満足感でいっぱいでした。
おちよでした。
追記
前回の通信、誤字脱字がいっぱい。読み返すゆとりがなかったようです。いつものことだけれどね。ごめん。
ボリビア通信(46)
9月27日(その1)
この日が近づくにつれて、先生たちの緊張が高まり、私も他のことに手が着かない状態が続いていたのです。9月27日は、ボリビア通信(34)あの「翼をくださいスペイン語版」で紹介した、大阪出身の音楽の先生、藤井さん率いる「コチャバンバ市民合唱団およびマンセスペ国立音楽アカデミー合唱団による特別コンサート〜日本の合唱音楽」が、ここ、コロニア・オキナワで開かれることになっていたのでした。コチャバンバであのコーラスを聴かせてもらったとき、「コロニアの子どもたちにも聞かせたいね。」の一言から始まった、コロニアへの無料出張コンサートです。その上、小さい子どもたちの集中のためにも、交流コンサートにしようと、いろいろな取り組みを準備してもらいました。で、送迎バスの手配、食事準備のための各方面へのお願い。当日の会場準備から、子どもたちの指導。二つの学校の打ち合わせ、藤井先生との細かい連絡。コンサートの流れに沿った練習と準備、などなど、とにかく初めての経験でみんな、失礼のないように、失敗のないようにと、体も心も緊張気味でした。とにかく音楽には本当に「鬼」になる藤井先生です。私たちも・・・。
で、9月27日の朝。予定より少し遅れて、三台のマイクロバスで65名が到着。歓迎のための子どもたちによるエイサー披露をスタートに、始まったのでした。
コンサートは、ボリビア人による日本語の日本の合唱曲。子どもたちの合唱、子どもたちの沖縄三味線(三線)発表、合唱団員のギター演奏、子どもたちのリコーダー発表、団員のリコーダー演奏が、藤井先生の見事なプログラミングでうまくまとめられて、終わりには会場全員での「ふるさと」の大合唱。最後に合唱団の「スペイン語、翼をください」と・・・・。そのあと、合唱団員が積極的に子どもたちに語りかけてくださって、わいわいがやがやの交流会。「さぁ、終わりかな。」と思っていたら、藤井先生がそっとこれれて、「一曲忘れていたから、今からやります。いや、先生は何もしなくていいです。」といわれて、会場入り口の横の壁のところでなにやらうち合わせ。あっという間に合唱団のメンバーがそろって、「さよなら」の合唱が始まった。生徒も先生も自然に前に集まって先ほどの、少々緊張気味のコンサートとはひと味ちがった素敵な盛り上がりだった。続けて「ソーラン節」会場は、再び熱気に・・・・・・。(動画写真です。)
「すごいですね。あれは、『わすれた。』のじゃないでしょう、『先生の作戦』ですね。といったら、にたりと笑って、「大阪パワーです。」とおっしゃった。本当にすごい人です。
で、すべてのスケジュールが終わって、夕食はお弁当。学校の教室でわいわいがやがやと。何しろ、日系人との食事があると言うことで、藤井先生、前回大量に割り箸を買って帰られて、団員に箸の使い方を教えてきたとか。おもしろい人です。
夜の8時30分には出発して、長距離バスでコチャバンバヘ発たれると言うことで、サンタクルス最後の夜を、先生と団員たちは運動場でも高鉄棒のまわりで大騒ぎ。50代(?)のはずの藤井先生も、「コウイチ、コウイチ」のかけ声にのって、
車輪を見せていた。危ないなぁ。でも、厳しい指導の合間の先生と生徒の元気にはしゃぐ声。かつては日本の学校でよく見た光景だなぁと思いながら、事故の心配をしながら暗闇の中を眺めていました。
8時になったら、お礼のゴアいつを、ということで、私たち教師、父母会、学校運営委員会のみんなが再び視聴覚室に集まった。ここからはまたあとで。ちょっと疲れた。
おちよでした。
ボリビア通信(45)夜更けのプラサ
「ナマケモノがおりてますよ。」と子どもたちが走ってきた。
敬老会の式典、余興(子どもたちのいっぱいの出し物)が終わって、ほっと一息、先生たちとオキナワそばでビールを飲んで公民館でくつろいでいた。
ばっと立ち上がって子どもたちと公民館前のプラサへ。
子どもたちにとってはそれほど珍しくもないようだけれど、ちゃんと私のような新参者のために教えてくれる、そんな子どもたちなのです。
子どもたちがいっぱい取り囲んでいるの中、大きな木の根本に、いました。ナマケモノです。暗闇で写真は難しい。ストロボをたくのはかわいそう。これでがまんして。 おちよでした。
ボリビア通信(44)
野焼きか?
ここの野焼きはとにかくすごい。この時期、あちらでもこちらでも広い野原に火をつけているのです。先日も真っ暗闇の中、本当に地平線の向こうまでかと思うくらい長い長い真っ赤な炎のラインが続いていたのでした。思わず車から降りて見入ってしまいました。
で、この日は夕刻、薄暗くなりかけた道を町から帰るところでした。JICAの国際協力功労賞の表彰式で、表彰される先生といっしょに町へ行った帰り道です。まっすぐ続く道のはるか向こうの方にちらりと炎が見えました。えらく道に近いところで野焼きをしているばか者がいるな、と思いながら車を走らせました。少し進むと道の凹凸のためか見えなくなりました。で、どんどん進んでいくと煙が見え、再び炎がチラチラしています。野焼きか?いや、道に人が出てそちらの方を見ているのです。何しろ田舎の道路、たくさんの人じゃないけれど、三々五々、道ばたでそちらの方を見ているのです。近づくと炎が道に乗り出しているのです。こりゃまずい。少し手前で車を止めて様子を見ることにしました。すごい煙が出ています。思案していると煙の中から大きな火の玉が二つ現れて・・・・。大きなトラックでした。全く姿が見えないでライトだけ、車が確認できるまでちょっと時間がかかりました。ほんとにまずいよ。どうしようかなぁ。と思っていたらもう一台、煙の中をトラックがやってきました。往くしかないか!
ライトをつけて、深呼吸をして、ソロリソロリと車を煙の中につっこみました。炎もチラチラ道の方に流れてきます。なにも見えない。ただただまっすぐに車を走らせて、この間、10秒足らずだったのでしょうか、でもずいぶん長く感じて、煙の向こうに道が、道脇の草がぼんやり見え始めたときはほんとにほんとにホッとしたのでした。同情の先生と「対向車がこなくてよかったねぇ。」と、心から喜び合ったのでした。そこから一キロくらいは煙と、道の左右に炎が転々と分散していて何か異様な光景でした。野焼きの失敗だったのでしょうか。窓を閉め切っていたのにきな臭いにおいがいつまでも車のなかに充満していました。
ほんと、こわかった。 おちよでした。
ボリビア通信(43)花の命
本当に短いのです。ここボリビアでは次から次へと木々に花が咲きます。先月ころから咲き始めたタヒーボ。まずピンクの花が咲いてしばらく楽しませてくれました。そして今、紫と黄色が強烈な色彩で目に入ります。そしてきのう。白いタヒーボの花が咲いたのです。あわてて写真を撮りました。なぜって、明日の命はない花です。
タヒーボの白い花は本当に短い命なのです。一昨日、町へ出たとき、環状線の反対車線の向こう側に見事な白い花をいっぱいに付けた木を見つけたのです。同乗者の先生と、「帰り道にきっと写真を撮りましょうね。」といいながら所用のためにJICAの事務所へ急いで、ほんの2時間後。白い花はすっかり下に落ちて自然のじゅうたんと化していたのです。しきりに残念がっていたのですが、昨日の朝、玄関から外に出て、ほんの4,5m歩いてのびをして、体をグウッと回したのです。(一昨年ぎっくり腰の痛みを得てからこの動きが日常化してます。)右に回して、左へ・・。「えっ!」向こうの方に白い花をいっぱい付けた木が見えて、体の回転はそこで止まってしまったのです。あわててカメラやら交換レンズををもって家の鍵もかけずに門を出ました。さっき見た方向へ歩いたのですが、道に出ると見えない。再び戻って・・・。ありました。お隣の診療所の中の小さな中庭に。大きなタヒーボが一本だけ。もうこれだけで庭がいっぱいになるようなせまい中庭に。いろいろな角度から写真を撮っていたら(狭すぎて難しい)診療所の食堂からボリビア人のお姉さんがほうきをもったまま出てきて”Bonito,bonito!”といっしょに喜んでくれました。そのうちお医者様も出てきて、「写真ならここから。」と2階というか屋上というか・・・、へも案内してもらいました。婦長さん曰く、「あの中庭は若者のデートスポットだったのです。で、母の日か何かの式でもらったタヒーボの木をここに忘れていったのがこんなになったのですよ。」とにかく見事な花でし
た。
で、翌朝、同じ玄関前からタヒーボを・・・・。
ボリビア通信(42)
今年も、入植記念日のイベント(かな?)豊年祭が村をあげて、ホントに盛大に開催されました。ラ・パスから大使夫妻、何とか農業大臣、コチャバンバの市長、なんていろいろえらい人もそろった。挨拶はさておいて、そのあとのアトラクションはけっこう見せてくれた。ボリビア人たちの踊りがいくつもあるのだけれど、おもしろいのはホントにどのダンスのチームにも小さな子供から大人まで年代というか身長というか、いろいろな人たちが踊るのです。で、その小さなのがけっこううまかったりとんでもなかったりで、見るものを喜ばせてくれるのです。それではその一端を・・・・・。動画にしたかったんだけれど、容量がねぇ・・・・・・・。写真でがまんがまん。
で、次の日の朝、袋を持った子供たちが何か落ちているものを求めてプラサのあたりを歩いているのも、貧しい国ボリビアの悲しい現実でした。 おちよでした。
ボリビア通信(41)
一ヶ月前の麦畑、今日の麦畑です。黄金色になったのです。
そう、ここはボリビア、コロニア・オキナワ。大豆と麦を作ってます。麦はもうすぐ収穫期です。ホントに黄金色に波打ってます。美しい光景です。
ボリビア通信(40)
けっきょく、1000羽には届かなかったのですが、二つの学校の子どもたちと折ったツルを日本へ行かれる先生に託しました。無事に広島に届いたでしょうか。初めての子どもたちもいて、仕上げは必ずしも美しいツルばかりではなかったのですが、広島出身の青年ボランティアがいただいてきた資料と、三省堂の英語の教科書で子どもたちに広島の原爆について話しました。佐々木貞子さんの話をして、みんなで鶴を折りました。中学生たちはさすがに原子爆弾のことは学んで知っていたようです。
コロニアオキナワは、一見ふつうの村ですが、他とちがってけっこう日本、主に沖縄から移住してきた人たちが多いです。この村の人々は幸せに暮らしています。そのためか、私にとって、この村は平和なところだと思います。たまに思いますが、ここは平和すぎて、世界のあちらこちらで起こっている大事件が信じられないほど夢のようです。
と、中学生の作文です。とにかく平和な村なのです。でも、やっぱり世界のいろいろなことは教えなければなりません。広島の平和祈念式典の子どもたちの「平和への誓い」にもあったように、平和への人の輪を広げなければなりません。ツルを折ったことで子どもたちの心に何かが残ってくれることを願ってます。家に持って帰って家族で折って持ってきてくれた子もいました。
枚方の学校にいたとき、毎年千羽ツルを折ったことを思い出しながら、子どもたちと広島のことを話しています。日本でもみんなやってますか。大人が子どもたちに伝える大切なこといろいろあるけれど、これはとっても大切なことだと思うのです。57年目の夏。広島市長の言葉は凛として力強かった。厳しい口調だった。その後の総理大臣小泉さんの挨拶には内容にも口調にも迫力がないと感じたのは私だけでしょうか。
ちなみにこの日、8月6日はボリビアの独立記念日。子どもたちはその前日、式典に行進をしダンスを披露しました。地域にある3つの学校のうち規模は一番小さいけれど、一番素敵なバンド演奏をしました。いろいろこころにしみる裏話もあって、素敵な子どもたちです。
動画を送ると時間がかかるのだけれど、何しろこれを受けている人たちはコンピューターの初心者揃いです。そのまんま受け取ってください。 おちよでした
ボリビア通信(39)
アルマジロがそのまんま、網の上に腹を上にして寝ていたのです。
誘われて、ご近所さんの誕生日の宴に出かけていった。奥さんいわく、「先生のところのようにご馳走はありませんよ。うちではとにかくいろいろな肉を皆さんが期待しているのです。」で、この日はアルマジロと鹿と何とか言うウサギの一種だそうだ。知らなかった、こんな趣向だとは。意を決してコンロ(?)のところへ。いました。アルマジロあのまんまの形で内臓部分をとられて、両手両足を上にしてまあるい背中からジリジリ焼かれていたのです。以前、別の人から「子供のころ、腹が減って、アルマジロを捕まえるのが難しくって、必死だった。」と聞いていた。どうして捕まえたのか聞いてみた。散弾銃でうったのだそうだ。右前足のあたりに弾のあとがあった。
鹿は?と聞くと、ハンモックの上で待ち伏せだそうだ。何日か前から、グレープフルーツを撒いておく。で、ハンモックの上で待ち伏せて・・・・。赤いきれいな肉が炭のうえにあった。鹿のロミートだって、あのヘレの部分だ。
ウサギの一種だという動物は名前がややこしくて覚えられない。バンビのような模様があるのだそうだ。けものみちを上っていくのだそうだ。ご親切に冷凍庫から予備の肉も見せていただいた。
先日、コチャバンバへ行ったとき、ウサギ料理を食べた。あの時はリスくらいの小さなウサギがそのまんまの格好で皿の上に乗っていて、手が出なかった。地元の藤井先生が裁いてくださったのでちょっとだけ・・・・。
とにかく、いろいろな経験をしているのです。
「食べたか?」って。ご主人が直接火の上から切り分けて私に手渡してくださったので、食べないわけにはいかなかったのです。「味は?」って!う〜ん。なんか複雑な味だった。子供たちがどんどん食べていた。
写真はない。 おちよでした。
ボリビア通信(38)ボリビア・コロニア交通事情(1)
さとうきびの収穫時期です。すごい車が走ります。写真の道はまだいいところだけれど、町へ行くのに約30キロは片道一車線。この車を抜いていかなければ、町まで2時間以上ののんびり旅になります。こんなのが2台、3台と連なってるとホント大変なんだから。もっと長い貨物列車みたいなのも走ってる。みんな積載量オーバーだから、中には車が傾いているのもある。何度か道端にパタリと倒れている車を見たこともあるのです。ホントに怖いのですよ。
で、時々パラパラと落としていくのです。へたにその上を走ると車のおなかに引っかかったりするのです。
先日、第二コロニアの学校からの帰り道、はるか先のほうにさとうきびらしきものが横たわっているのです。「気をつけよう!」って思って近づいていくとなんかちょっと違うのです。えっ!動いてる。直前まで来てやっと道脇の叢へ入ってくれたのはれっきとした2m以上はあるヘビでした。もうちょっとで引くところだった。
この道はとにかくいろいろあるのです。前方に大きな鳥たちが数羽降り立っているの要注意。何かの死体が横たわっているのです。ヘビだったり鳥だったり、なんか見たことのない動物だったりするのです。ゆっくり走って鳥たちに飛び去ってもらい、死体を避けてそっと走るのです。
大きな白い鳥(名前は知らない)が低い木に止まっていたのです。シャッターチャンスとばかりに車を降りてカメラを構えて飛び立つのを待ちました。今にも飛び立とうとしていて私はシャッターに手をかける。そのとき向こうから砂埃を上げて車一台。おどろいた鳥は飛び立ったけれどすごいほこりで何も見えなかった。車の中は私を知っているコロニアのおじさんらしくて、ニコニコ手を振って去っていった。あ〜ぁ。
第二の学校へ向けて車を走らせる。向こうのほうになにやら・・・・。わっ!牛の群が道いっぱいにこちらへ向かっている。ぐんぐん近づいて行くとなんとすごい大群。ずっと向こうまで続いている。後ろの方に馬に乗ったボリビア人のおじさん二人。気を遣って何とかしようとはしてくれるけれど、ケッキョク待つしかない。車をとめて牛の大群が車の両脇を通り過ぎるのを見ているしかない私です。窓から牛のつぶらなひとみと目が合うのです。何しろ多勢に無勢、堂々とゆっくりと歩いていく牛たちをじっくり見守ったのでした。その間約5分くらいかな。やっと通り抜けた道には牛たちのお土産もいっぱい落ちていたのでした。
で、その帰り道、約4時間後。その牛たちはまだ歩いていたのでした。何しろ20キロの道のりです。今度は後ろからです。牛たちは後ろのことなんか無頓着。ボリビア人のおじさんがムチを鳴らしたって、お尻をパチパチたたいたってどうにもならない。ケッキョク10分あまり、やっと牧場に入っていく牛を見送ってやっと帰った私でした。疲れるよ。 おちよでした。
ボリビア通信(37)馬の友情
コロニア・オキナワ、ひまわり畑を求めてどんどん南下した。第一コロニアから第二コロニアへ約30分。第二コロニアから、第三コロニアへ約20分。車の窓から見えるひまわり畑は余り大きそうではなかったので、どんどん南へ。第三コロニアの越えてどんどん走る。そのうち道の感じか変わってきた。雨も降り始めた。どうやら日本人の地域をすぎてしまったようだ。この先、ひまわりはもうないだろう。その時向こうから一頭の白馬。トコトコと走ってきた。「馬は気をつけてくださいよ。しっぽを振ったとたんに方向転換します。」といわれていた。車を止めてやりすごした。でも道はどんどん悪くなる。雨もきつくなってきたので、Uターンすることにした。
元の道を戻ると言うことは、結果として先ほどの白馬の後を追うことになってしまった。彼(彼女)はトコトコと走る。こちらは追うつもりはないのだけれど追われていると思うのか早足でパカパカ走っていく。こちらは急な展開が怖くて追い越せないのだ。雨の中白馬はトコトコ駆けていく。哀れになって車を止めた。道の左は大きな牧場。白馬はその門を見つけてそちらへ入っていった。「よかった、よかった」と車の中。でも、門は閉まっていた。再び道に出てきた白馬はやっぱり私たちの車の前をパカパカ行く。(そんなに近づいたのじゃないよ、10mくらい離れていたんだぞ。)困った、困った。
しばらく行って、白馬は左の草むらをかき分けて牧場の柵の所へ近づいた。ケンカか!前日の牛を引いているときの光景が思い出された。道を歩いていたら牧場の牛たちが怒って柵の所へやってくるのだ。ケンカになるのだそうだ。
その白馬が柵に来たとき、一頭の馬が近づいてきた。首をすり寄せて何かしている。鳴き声をあげた。車を止めてみんなで雨の中の馬を見つめた。集まってきた3,4頭の馬が柵越しに何かしている。どうなるのかと見ていたとき、牧場のあちらこちらから馬が一斉に走ってきた。すごい光景だった。30頭はいただろう、本当に一斉に駆けてきたのだ。たちまち馬の大集団になった。ヒンヒン泣いている。どうやら外の白馬を中に入れようとしているようだ。でも柵は高い。どうしようもないようだ。外の白馬が右へ左へ動くのが草の間から見えた。馬をよく見ると、明らかに違う種類の馬だ。この白馬はこの牧場の馬ではなさそうだ。でも、みんな真剣に心配している風だった。車の中から見とれてしまった。どうなるのだろう。みんなで集中していた馬たちも困って周辺をうろうろし始めた。数頭の馬だけがいつまでも外の白馬にくっついていた。ずいぶん時間がたっていた。
この先が気にはなるけれど、これ以上じゃまをしてはいけない。私たちはそっと車を出しました。
馬たちの友情を見た思いだった。馬の一斉に駆けてきた風景はホントにすごかった。でも写真はない。雨がひどくて外へ出られなかったのです。残念。 おちよでした。
ボリビア通信(36)牛と少年
やっぱり規模が違う。
でっかい農業の器具や車がこれまた広い倉庫に並んでいる。タイヤが私の身長と同じくらいのトラクターや植え付けのための車、収穫のための車が何台も格納されている。見渡す限りの麦畑。やっぱり広いここでの農業はなんでもスケールが大きい。
移住40数年、ここで農業、牧畜業をされているお宅へおじゃました。親子2代で作り上げてきた広い農地、牧場。そのための農機具。日本ではお目にかかったことのないでっかい器具ばっかり。見とれてしまった。
御年、70歳。ボリビア人たちをたくさん使っての農業だけれど、今でも先頭に立って働いておられる。息子さんたちも同じ。多くの日系人たちが、ボリビア人労働者に仕事を任せてしまっている中で、この親子は自分たちが労働の先頭に立つ。研究も熱心だ。
孫のT彦クンは牛博士。小学5年生。くりくり目玉の彼は、牛が大好き。4歳から馬に乗り、牛と一緒に暮らしているという根っからの牧童だ。彼の活躍ぶりを見たくて、土曜日の朝早くから若い先生たちと出かけていった。
騎乗の少年は教室で見る彼とちがっていた。はつらつとして目も輝いていた。縄を打ち、牛を追う。お父さんといっしょに約300頭の牛を率いて牧場から別の牧場へ。颯爽と引いていく。
お母さんがそっと教えてくれた。「年に2,3回学校を休むのですけれど、あれは病気じゃありません。牛の入札の日です。」だって。「誰も教えないのに、自分で新聞で入札の日をチェックしている。」のだそうだ。ちなみに彼は勉強は嫌い。本なんか読まない。はっはっは・・・。
ひとまわり大きな種牛を見せてもらった。一頭1000ドル以上の種牛を、T彦クンも自分で選んで、買って持っていた。10頭ほどいる種牛の中に入ると大きな牛がT彦クンにすり寄ってくる。ほほえましい光景だった。牛は音に敏感だから、同僚の先生が近づくと大きく首を振って怒って威嚇してきた。柵の外で見ている私の横で、おじいさんが、「私は牛には触ったことはない。私は農業。牛好きの次男と孫が牛をここまで育ててきた。今約500頭いい牛がそろっている。T彦のころはもっともっとよくなるだろう。楽しみだ。」ってね。「今のままでも十分楽しみだけれど、勉強もして獣医か研究者になって、人工授精なんかにも関わってくれたら、言うことないんだけれどね。」ともおっしゃった。その気にならせるのが私たち教育者の仕事かな。
このご家族、ここでは成功者の筆頭だ。広い広い農地と牧場の持ち主。ほんとにすごい。ボリビア移住地の広さを満喫した半日だった。
ボリビア通信(35)
こんにちわ、今日はこれだけです。
幸せの・・・・・・・、ちょっとおすそわけです
ボリビア通信(34)
感動的なひとときでした。
地球の裏側、南米ボリビアでボリビアの人たちの日本語の本格的な合唱を聴きました。日本語の合唱組曲「海鳥の詩」から2曲と「翼をください」のスペイン語版。ボリビアの人たち60名ほどの市民合唱団の練習を見せていただきました。最後に練習中の曲を披露していただいたわけです。年齢は小学生くらいからかなりの年輩の婦人まで。かわいい小学生くらいの男の子が女性に混じってソプラノのパート練習をしていました。とにかく熱心でパート練習も真剣そのもの。彼らの熱意が夜の教室いっぱいに満ちていました。
翌日は吹奏楽団の練習を見せていただきました。大学生が中心ということで全員そろうことがなかなか難しいようだけれど、少しの手抜きも許さない厳しい練習でした。調音だけでもピリピリの緊張が私たちにも伝わってきます。
合唱はともかく、30名ほどの市民吹奏楽団。これだけの楽器がこの貧しいボリビアでそろうのか・・・。実は楽器の半数以上が日本の心ある人たちから送られたもの。ご存じの方もあると思います。ひょっとするとこのキャンペーンに関わった方も・・・。5,6年前、大阪の先生たち、大阪府の吹奏楽連盟、朝日新聞もバックアップして集めた「家庭で眠っている楽器」でした。楽器のケースには「帝国学園滝井分校(昔の名前だね)」とか「池高」なんて前の持ち主の名前が読めました。「堤」なんてのもあったりして・・・・。
大阪府大東市出身の音楽の先生がボリビアの学術都市(?)コチャバンバで、活躍されていることは以前から聞いていました。て、短い冬休みを利用して若い先生たちと一緒に訪ねたのでした。藤井康一さん。すごい人でした。ばりばりの大阪人。あののんびりやのボリビア人たちを、かつての日本人と同じくらい、いやそれ以上に、時間にも内容的にもビシッと決まった練習ができる集団にしてしまったのですもの。ソルフェージュのテスト風景、ピアノのテスト風景も参観させてもらいました。国からの依頼を受けて、つぶれかけの公立の音楽専門学校を引き受けて再建中とのこと。決して豊かではない幼稚園児からの音楽学院です。まだ校舎もない学校ですから、ブラジル系の私立学校を午後から夕方にかけて間借りをしての授業、テストです。ピアノの練習、テストは街の中心からちょっと離れたところにある、あまり利用されていない野外劇場の楽屋でした。日本の音楽を学ぶ学生のように恵まれた環境ではないけれど、藤井先生の講評を聞く真剣な眼差しが印象的でした。合唱の練習は街のドイツ学園の校舎。吹奏楽も野外劇場と、ジプシーのように移動しながらの毎日を、藤井さんは精力的にがんばっていました。
夕食は、藤井先生の手作り、オリジナルの日本料理(?)。これもまた大阪人ならでは。郊外の大きな邸は未だ建設中。というより、学校にお金がかかりすぎて自宅まで手が回らない、4年間、工事は止まったままだそうです。できあがったら素敵なおウチになりそうなのですが、「見通しは?」と聞くと、「ない。たぶんできないでしょう。」と笑顔の答えでした。おもしろい。でも、かわいい若い奥さんと笑顔のかわいい3人のお嬢ちゃんに囲まれて幸せそうでした。
最後の日には、若い先生は発声法の学習、分刻みの時間でボリビアの民族楽器チャランゴの工房まで案内してもらって、本当に充実したコチャバンバ2泊3日の旅でした。「チャランゴを買ったか?」って!当然でしょう。彫刻の入った素敵な作品を見て我慢できるほど私はできた人ではないのです。(ただし、まだ行程の半ばで、できあがるのに3週間ぐらいかかるらしい。)
初対面の私たちのためにあれほど一生懸命にしてくださる人がいる。さぁ、私もがんばらなければ。 おちよ
番外:ボリビア冬休み事情
年度当初の冬休み予定は6月24日から2週間でした。ところが6月にはいってもぽかぽか暖かい。国は30日からの冬休みを発表したらしいのです。(ニュースを見てなかった。)そんな馬鹿な。と思っていたら、急に寒くなって17日からになるかもしれないとの噂。その後、やっぱり24日からになりそうだねぇ。と言われていたのですが、10日頃からしとしと雨と冷たい風。その寒さが13日頃にはピークになって・・・。国はとうとう17日からの冬休みを決定したのでした。で、わが日ボ学校の運動会の15日。からりと晴れてぽかぽか陽気。その日を境に晴天が続いて・・・・。学校独自に決めたところもあって、冬休みがバラバラ、という結果でした。ちなみに私の勤める二つの学校。17日から冬休みに入った学校と24日の当初の予定通り決めた学校。おかげで私は実質1週間になってしまったでした。ま、しゃあないね。お山の方では寒くて凍え死ぬ子どもも・・。という配慮で最終決定するそうだから。