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ペドロ・シモセ氏インタビュー(2001年10月実施)より
(日本語訳:角井信行日系社会シニアボランティア)

★日本人の血を受け継いでいることは誇りに感じています。しかしそれ以上に重要なことは、日本人としての教育と日本人としての性格を形成することを家庭で学んだことです。その方が重要だと思います。

★(日本は)私の祖先の大地です。日本は、第二次世界大戦という歴史上の特殊事情により、私達にとり断ち切られた存在でした。日本が戦争に負けた時、日本から来た移住者はみんな大都会とアメリカ大陸との間に分断されたような存在になりました。ですから我々の年代の二世は日本とは断絶状態で育ったと言えます。1960年代までは将に空白期間でした。しかしその間も我が家では日本人としての心構えと、その根っこにある伝統を絶やしたことがありませんでした。1960年までは、日本とボリビアの間に緊密な文化的な交流は存在しませんでした。ボリビアと日本の間の講和条約が結ばれたのは1963年だったのですからね。その後は我々二世も少しずつ日本と日本政府に近づいて行きました。

★私の妻はスペイン人ですが、妻は、あなたはボリビア人ではない、日本人だ、と言った最初の人です。そうなのです。妻は、あなたはボリビアの教育ではなく日本の教育を受けたのだと言っています。だから私はあなたと結婚したのだ、あなたは約束を破らない、口数の少ない人だ、と言っています。例えば、私の子供達は日本人そっくりの資質を持っています。私達は残念なことに日本語を継承することはできませんでした。日本語を失ったのは第二次世界大戦と大いに関係があります。私達はボリビアで日系人であるがために差別待遇を受けるなど長年に亘って大変辛い目に遭いました。学校では醜いものでした。こういった歴史の背景もあって、私達は日本語から遠ざかるを得ませんでした。しかし日本の習慣を捨てた訳ではありませんでした。父は、いや、母は二世で日本語はできませんでしたが、日本人の性質を継承していました。
先祖を尊敬することと先祖を忘れないことは我が家では生活の基本でした。

★ボリビアの日系二世やその子孫が何らかの形で、ボリビア社会の教育に関与して行けばいいのではないでしょうか。そのやり方としては、見本を示して行くことがいいと思います。父はいつも、見本を示すのが最良の教育だと言っていました。日本人の顔をしていてもろくでなしでは何の役にも立ちません。約束を破ることなく名誉を重んじなければなりません。
一方で、我々日系人はもう少し文化面での活動に協力してもいいのではないかと思います。ボリビアの歴史に沿った伝統と日本の歴史に沿った伝統との関係を明らかにすべきであると思います。どちらの優劣を競うものではありません。こういった活動を何らかの形でボリビアで実行した二世は既に何人かいます。軍隊とかスポーツとか、ボリビアのサッカーのナショナルチームには既に二世選手が何人か選ばれました。ボクシングにもいました。科学の分野においても、ボリビアの有名な医者の中にも二世がいます。芸術の分野では画家がいます。音楽でも二世の歌手がいます。日本政府には、こういった活動には何らかのサポートが必要であることを知ってもらいたいと思います。必ずしも資金的な援助ばかりではありません。父から教わったことですが、金銭的なことは後からついて来るものです。最初に必要なのはやる気です。金銭の話はその後です。こうすることによって、我々はボリビアの発展に寄与することができると思います。それはボリビアの発展ばかりでなく我々自身の発展のためでもあるのです。いつも考えることですが、人間は社会の中で育っていくものです。社会の外で育つものではありません。

★私の母方の姓はカワムラです。若い頃にある政党から政治に興味ないかと尋ねられたことがあります。しかし条件として母方の姓を変えろというのです。母方の祖母はサンタクルス出身のボリビア人でした。母は父よりずっと年下でした。父はボリビアに来た時は日本人の妻がいました。その父の最初の妻は子供を作ることなく若死にしまいた。父はやもめのまま長い年月が過ぎました。一方、日本人移民で、カワムラという父と同い年の人がアントニア・ロドリゲスというサンタクルスの女性と結婚してその間に娘ができました。父はその娘と結婚しました。それが私の母です。父が55歳、母が18歳の時でした。父と舅が同い年ということになりました。母は7人の子供を産みました。わたしが最年長です。

★(父が死んだのは)1969年、わたしが29歳の時でした。母は殆ど日本語を話しませんでした。
父は思慮深く口数の少ない人でした。父は、喋るのは最小限でいい、黙っていても、分かるものは分かる、というのが口癖でした。喋りすぎてはいけないとも言っていました。田舎の出でしたが、思慮深い人でした。父は、大学教育を受けた訳ではありませんが、日本が発展したのは、みんな読み書きができたからだと言っていました。当時は、学校に行くのが義務で、天皇陛下が法律で親は子供を学校にやらなければいけないと決めておられていて、学校にやらないと罰を受けたそうです。教育は極めて重要なものだと父は言っていました。口数は少ないほうでしたが、多くのことを教えてくれました。父は知覚本能に秀でた人でした。私には世の中の美しいものを見る目を養ってくれました。世の中は醜いものばかりではないと言っていました。大変美しいものがあると言っていました。人は、大体において急ぎ過ぎているとも言っていました。小さなものをじっとよく見ようとしないと言うのです。

★(父がボリビアに来たのは)1905年です。落ち着いたのは1908年でした。日本人の一団がペルーを出てマナウスに向かっていました。マナウスが最終目的地でしたが、リベラルタに着いた時、一同リベラルタが大変気に入りました。リベラルタは当時小さな町でした。14年前に出来たばかりの町でした。ですからリベラルタに居を定めた日本人は町を作ったような存在になりました。町中の人たちから大変歓迎され尊敬されました。町の人たちは日本人がまっとうな生活をすることに気がつきました。嘘はつかない、泥棒をするものは一人としていない、無駄口を叩かないで真面目に働き、規律をよく守る・・・・ボリビア人の目にはこれが新鮮に映りました。日本人は絶対に約束を違えませんでした。

★(日本人は中国人と一緒にされてチノと呼ばれていたことは)その通りです。
それは1960年代からです。それまでは、日本人はみんなチノと呼ばれていました。しかしそれは、別に不思議なことではありません。みんな世の中をよく知らなかっただけです。例えばアラブ諸国から来た移民はみんなトルコ人と呼ばれていました。レバノンやシリアやパレスチナなどいろいろな国から来た人たちを十把ひとからげにしてトルコ人と呼んでいました。1960年代までは、いや1970年代になっても我々もチノと呼んでいました。しかし日本人がみんな尊敬されていたことは間違いありません。

★あー、そうでした、私が政治活動をするなら母方の姓を変えろと政党が言った話をしていたのですね。母方の姓のロドリゲスを名乗れと言った話をね。私はそれを断りました。私は日本人の姓がついていることに大きな誇りを感じていてたからです。

 

以下の文章は、、社団法人日本ボリビア協会(ASCIACION NIPPON-BOLIVIA)発行の機関紙、「カントゥータ(Cantuta)No.1, No.2」の中の記事からの抜粋です。
ボリビアで活躍する日系人―その1―詩人ペドロ・シモセ
細野豊
数回に亘るシリーズで、ボリビアの色々な分野で活躍する日系人を紹介します。その第一回目は、詩人ペドロ・シモセを取り上げます。

彼は1940年3月30日、ベニ州リベラルタで日本からの移住者、下瀬甚吉とリベラルタ生まれの日系女性、ライダ・カワムラの長男として生まれました。生地リベラルタで初等、中等教育を受け、1959年(19歳)にラパス市のサンアンドレス大学の法学部に入学しましたが、1961年に中退、詩とジャーナリズムに専念し、この年に最初の詩集『亡命における三つのピアノ練習曲』を出版しました。1964年、フランス政府の奨学金を受けて1年半リールに留学、ジャーナリズムを学びました。この留学中にスペインのマドリッドへ旅し、そこで知り合ったロサリオ・バローソ・サルガードと1966年に結婚しました。
1971年に起こった右派と左派の武力衝突の際、左派の側についたため、その後闘争に勝利して政権についた軍部により国を追われてスペインへ亡命しました。その後今日に至るまで、家族と共にマドリッドに住んでいます。
彼が2000年10月に来日した際に伺ったところによれば、その後ボリビア政府は彼に謝罪し、1999年に国民文化賞を贈ったとのことです。
彼の詩は、12カ国語(日本語を含む)に翻訳され、国の内外で高く評価され、多くの賞を受けましたが、中でも重要なのは1972年に詩集『ぼくは書きたいのに出てくるのは泡ばかり』がキューバのカサ・デ・ラス・アメリカス主催の国際コンクールで第1位になったことです。
詩集には、上記の『亡命における三つのピアノ練習曲』(1961)のほか、『ぼくは書きたいのに出てくるのは泡ばかり』(1972)、『リベラルタその他の詩』(1996)、『きみはそれを信じないだろう』(2000)などがあり、物語作家、ポピュラー音楽の作詞、作曲家としても知られています。
彼の詩『わが父の伝記』(後掲)からもわかるように、彼は勤勉、実直、謙虚などの美徳を備えた典型的な日本人である父、下瀬甚吉を尊敬しており、彼の人格形成には父の人となりや生き方が大きく影響しています。また、日本文学についての造詣も深く、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、大江健三郎、阿部公房、三島由紀夫等スペイン語訳で読み、それぞれの作家について的確な評価をしています。
父下瀬甚吉は山口県吉敷郡大道村字鷲崎で1885年(明治18年)に生まれました。大道尋常高等小学校卒業後、農業、運搬業等に従事しましたが、1908年ペル―へ移住。チャンチャンマイヨ耕地に入って6ヶ月を過ごしました。ペルーのカリャオ港に着いてから一旦首都リマを出て、リマから鉄道で入植地へ入ったときのことを下瀬はこう語っています。「われわれは移民と言われず、まるでけだもの扱いみたいに馬の寝るところに寝かされ、一等、二等には乗せんのです」。
6ヶ月の契約期間が過ぎると、よりよい生活を求めてマルドナードに行って、道路工事、ゴム採取、農業等に従事した後、1914年(大正3年)にアマゾン河の上流に当たるマドレ・デ・ディオス河を下ってボリビアのリベラルタに着きました。当時リベラルタは人口4,000人ほどの町で、そこに300から400人ほどの日本人(ほとんどが男性)がいたといわれています。いずれもペルーからマドレ・デ・ディオス河を下ってきた人たちでした。
リベラルタで下瀬は仕立て屋を4年間学んだ後、商店経営に転職。第二次世界大戦たけなわの1943年3月、米国からリベラルタに住む日本人たちのもとに強制収容予定者と資産凍結対象商店の名簿が送られ、その名簿には日本人会長の職にあった下瀬も含まれていましたが、当地での日本人の評判がよかったため、ボリビアの官憲は日本人に好意的で、米国へ連行された日本人は一人もいませんでした。資産凍結で閉鎖された商店は数件ありましたが、資産を没収されることはありませんでした。
しかし、戦後は日本人或いは日系人であるための迫害を種々の形で受けました。そのことでペドロ・シモセは日本人移住100周年誌『ボリビアに生きる』(2000年3月、ボリビア日本人移住100周年移住史編纂委員会編、ボリビア日系協会連合会発行)に寄せた小文「歴史を持たぬ人々の物語」で次のように書いています。

「日本は戦争に負けた。戦いに敗れると、権力の中枢部から忘れられたボリビアのこの地方で、ドイツ人と日本人は自分たちが築き上げた経済と社会への貢献を無視した住民による報復を受け始めた。連合国側の勝利を盾にし、またアメリカ合衆国のやり方を真似て、地域のボスたちがドイツ人と日本人を追い詰め、財産を没収した。彼等は農業協同組合を解散させ、畑の作物をなぎ倒し、収穫物を燃やし、豚、馬、牛を殺した。すでにボリビアに帰化していた元日本人の農業者と商人は貧困のどん底へ突き落とされた。このような暴行と残虐な行動は警察がそれとなく同意し、傍観するなかで、ボリビア人たちによって行なわれたものである。誰も私たちに説明してくれなかった。誰も私たちに謝りもしなかった。1945年以降、ドイツ人や日本人の子供であることは不名誉なことであり、屈辱と侮辱に耐えなければならなかったのである。」

わが父の伝記

ペドロ・シモセ
細野豊訳

男になった男、ぼくの全ての
種子、
風の中に撒かれた風の島、
巻き貝と火山が波を浴びて鳴り響いた。

亀たちが浜辺で陽を浴びる大地のこと 彼は知っていた。
そこでは稲妻が夜の羽毛を金色に染め
パンの木が
熱帯の雨の中で輝いた。

彼は歩いた
虎と木材の小道を。
(青い樹木と黄金の川の間で
彼は死を見つめ)、
            歌を口ずさみ
リュートの弦を張った。
大地を耕し
大地から詩をもぎ取った。
大気の中へ入り
大気から詩をもぎ取った。
風と竹の寓話で彼は僕を教育した。
       (空を泳ぐ魚たち)
網と色のあたりをぼくらは航行し、
        水から顔を出し、
       光とオレンジの夢を見た。
暗い尾とを響かせ、羽毛のある火薬の中から彼はやって来た。
他人が犯した罪についてこの人に何の咎があろう?
今でもぼくには、陰鬱で静かな威厳に満ち平然と
湿った牢獄の中にいる彼が見える。
雨が遠ざかった頃、癒瘡木とアーモンドの森へ彼は帰ってきた。
ぼくらはともに
冷たい水が滴る火の西瓜を分け合った。
ぼくらはともに
果てしない忘却の祖国に感謝を捧げた。
ぼくらはともに
マホガニーの枝についた蘭とマチコ(注)を描いた。

このようにして彼は
息子たちや新しい友人たちに囲まれて、
ぼくが訪ねるたびにより若々しくなる。
ぼくは彼の家を音楽で飾るために
ギターを持っていく。

彼は
ぼくに菊の庭を見せ、
今舟を造っているところだと言う そしてぼくに
彼の友人でもあるぼくの友人たちのことを尋ね、
ぼくが煙草を憶えたかどうか、
恋人はできたかどうか・・・尋ねる。

彼は人間の謙虚な偉大さを知っており
彼が敬うように人々が彼を敬い、
彼が愛するように人々が彼を愛していることを知っている。

これがぼくの父だ


(注)南米産のコショウ科の植物
―詩集『文字どおり』(1976)より―

 

OTOSAN(1882-1970)

あなたの死はあらゆる所にある。
それはぼくの空間の概念を打ち壊す。
それは夢見、あなたのサンダルの側で、
菊と雨漏りの側でぼくを目覚めさせる。

昨日、
ぼくの手は傘を捜していた。
あなたはぼくの中に火を、熱狂の熱さを
降らせる真実であった。
だがもうあなたはおらず、
ぼくはあなたの名前を小声で口ずさむ
(思いがあなたに話す)
そしてあなたは
木材のまどろみのなかをひっそりと歩く、
あなた自身に似ているものは何もなく、
あなたに追い付く音は
まったくない
もはや庭に静けさはなく、
音楽も薔薇もない。
ただ時間があるだけ(いつかぼくはなぜ
花たちがあなたを好きなのか知るだろう。)

あなたの死は
あらゆる処にあり、
ぼくは
あなたを
強く
抱きしめようと
決め手となる合図を
待っている。

―詩集『消えそうな火』(1975)より―

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