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ゴム景気の時代
★スワレス商会
ベニ川リベラルタからベニ川下流に向かってバスで2時間ほど走ったところに、カチュエラ・エスペランサという地点がある。そこは、かつてゴム景気にわいた時代に「ゴム王」と呼ばれたニコラス・スワレスが経営するスワレス商会の本部が置かれていた場所である。そこは巨大な石が川の流れを拒むように突き出した激流地点で、水がものすごい音をたてて流れていく。その眺めは大変美しいため、現在では観光地の一つとなっている。しかしゴム景気の時代には輸送の一大難所であった。
ニコラス・スワレスは、サンタクルス出身のスペイン系ボリビア人で、19世紀末からボリビア北部と中部に広大な野生ゴム林を取得して、ゴムの生産を独占した人物である。ちなみに1913年にスワレスが所有していたゴム林の面積は958万7541ヘクタールにも及んだ。スワレス商会はボリビア国内各地に支店を置き、多くの船舶や倉庫を保有し、ゴム液採取からゴムの買付けまで一手に引き受け、その事業形態は大規模であった。当時、繁栄の頂点を極めていたスワレス商会の全ての建物はヨーロッパ風で、奥アマゾンにあるとは思えないほど立派なものであった。発電所や造船所をはじめとする各種工場、ホテル、学校、劇場、教会、病院などあらゆる建物が近代的かつ豪華に建てられ、ゴムやその他の商品を集荷する港も整備されていた。
またカチュエラ・エスペランサは激流地点にあるため、ここで船の通行は不可能となる。アマゾン川下流に運搬する物資はここで一時陸揚げし、荷物の積みなおしをしなければならない。スワレス商会はこの区間に鉄道を敷いて機関車を走らせ、物資輸送の効率化をはかった。それはヨーロッパから呼び寄せた優秀な技術者がつくった。
また、ここには娯楽もたくさんあった。劇場では米国から輸入した映画が上映され、格調高いスペイン語で書かれた新聞や雑誌も発行されていたという。ヨーロッパや米国など世界各国から取り寄せた最新で上等な物であった。食料品、酒、雑貨、医薬品、機械類などありとあらゆる品物が世界中から集められた。日本の大東紡や鐘紡などの商品も輸入され、ホテルには醤油や味噌などの調味料も置かれ、日本人の手によって日本食も作られていた。
とにかく、ここには何でも揃っていて、一つの小さな近代都市のようであったという。電気の灯は一日中消えることなく、なに不自由ないカチュエラ・エスペランサは他のどんな都市にも引けをとらないすばらしい所であった。それは実に優雅で華麗な生活ぶりであったといわれている。ここで働く人間は、世界中から集められた優秀な者たちであった。規律は厳しく、事務所で働く者は常にネクタイを締めて身だしなみを整えていなければならなかった。
ところで、ニコラス・スワレスは大変な日本びいきであったといわれている。スワレス商会が所有するゴム林に日本人労働者を積極的に導入し、カチュエラ・エスペランサにも多数の日本人を雇用していた。その中で特に際立った人物が重国忠治である。彼はニコラス・スワレスに気に入られ、スワレス商会本部の食料品部門の責任者を任されていた。現在、グアヤラメリン日系人会会長のマルタ・シゲクニはその娘である。
ニコラス・スワレスが住んでいた家ゴム景気の凋落とともにスワレス商会の経営は傾き、1954年には倒産した。現在のカチュエラ・エスペランサは人口570ほどの小さな村に過ぎないが、当時のヨーロッパ様式の建物はまだ残っており、かつての繁栄ぶりを推察することができる。とくにニコラス・スワレスの豪邸の一つである「ビリャルータ」の玄関に残されているモザイクは美しく、当時のスワレスの富の大きさを伝えてくれる。今でもここには、かつてのゴム王国で働いていた日本人の子孫が6家族ほど暮らしているが、生活の糧はブラジルナッツやパルメット・ヤシのみで、その他には小規模な農業を営むだけの経済的に恵まれない生活を送っている。
(日本人移住100年記念誌「ボリビアに生きる」より)
★マデイラ・マモレ鉄道(悪魔の鉄道)
マデイラ・マモレ鉄道敷設工事とは、ボリビアとブラジルの商業発展を目的として計画されたものであった。とくに1900年代初頭はゴム景気が伸びつつあり、両国にとってこの鉄道はゴム輸送のために必要不可欠なものであった。米国人が経営するマデイラ・マモレ鉄道会社が60年間の鉄道経営権を持つことを条件として、ブラジル政府と契約を結び、1907年に鉄道敷設工事が始められた。ブラジル領のポルト・ベリョからグアジャラミリンまでの366キロメートル、総工費3000万ドル(当時の純金にして32トン相当)の大工事は1912年に完成した。この工事では5万人以上の者が働き、そのうちの約1万人が死亡あるいは行方不明となった。奥アマゾン地帯の不衛生な環境での労働は過酷を極めた。蚊やブヨなどから感染するマラリアや黄熱病、また脚気やアメーバ赤痢が多くの労働者を死に至らせたのである。使用された枕木は約50万本で、明らかに誇張があるが、「その枕木一本につき一名の生命を奪った」としばしばたとえられるほど、この工事は厳しいものであった。そのため建設費用からも、この鉄道は「黄金でできた線路」ともいわれている。
しかし、マデイラ・マモレ鉄道が完成した時期は、奥アマゾンのゴム景気の衰退期にあった。1914年までは採算に見合うほどの利用があったが、その後はゴムや貨物の運搬、一般利用者が少なくなる一方で、31年には鉄道の経営権がブラジル政府に売却された。ブラジル政府はなんとかして経営を立て直そうと努力をしたが成功せず、1966年にこの路線を廃線とした。
(日本人移住100年記念誌「ボリビアに生きる」より)
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