ボリビア日系協会連合会(FENABOJA)
 
>> HOME <<
ボリビア国旗
CASTELLANO〔スペイン語〕
Pagina Incompleta

「ペルー下り」への手紙を読む
〜28通に綴られた移民と家族の半世紀〜
寄稿:三山喬

 

1908年6月18日、日本人移住者781名を乗せた移民船「笠戸丸」が、ブラジルのサントス港に初めて入港した。これを記念して、ブラジル日系社会では、毎年6月18日を「移民の日」として定め、記念行事などが行われている。日本でも、昭和41年に総理府(現内閣府)によって6月18日が「海外移住の日」として正式に定められ、ブラジルのみならず、日本から海外各地へ移住した人々の歴史や、国際社会への貢献などを振り返り、日本と移住先国との友好関係を促進するための記念日となっている。

特集 6・18 「海外移住の日」
アマゾン上流域の密林地帯

南米で最も早いペルーと同年、1999年に移住100周年を迎えたボリビアの日系社会。その草分けは、サトウキビ労働者として一旦ペルーに入った後、過酷な環境に見切りを付け、アンデスの彼方に新天地を求めた人々である。険しい山道を超え、丸木舟や筏でアマゾン上流部に分け入った彼らは「ペルー下り」と呼ばれ、その一部は遠くブラジルにも、最初の移民船・笠戸丸の到着(1908年)以前に住み着いた。

本稿で紹介するのは、ボリビアの百万都市・サンタクルスで見つけた、そんな1人の足跡である。大正2年から昭和34年(1913〜59年)にかけ、日本から送られた28通の手紙。そこには、日本の農村とボリビアの奥地とで離れ離れに生きた一家の半世紀が綴られていた。

手紙の受取人は、鹿児島県出身の故・蔵元栄蔵さん。筆者は昨年、サンタクルス市を訪れた際、ボリビア日系協会連合会の佐藤信壽事務局長から手紙の写しを複写させていただいた。佐藤さんによれば、写しは、コロニア沖縄農牧総合協同組合(CAICO)の事務所に保存されていたもので、「おそらく70年の移住史編纂事業の際に集められた史料の一部。残念ながらオリジナルの手紙の所在は分からない」とのことだった。

ペルー新報社刊『在ペルー邦人75年の歩み』の渡航者名簿によれば、栄蔵さんは1908年、第6航海(カラベラス号)でペルーに上陸した人物。50年代後半、サンタクルス州に入植した戦後のボリビア移民たちは、市内にいた少数の邦人の中に、晩年の栄蔵さんの姿を認めている。

おそらく栄蔵さんは、他の大多数の「ペルー下り」と同様のルートを辿ったのであろう。ボリビアではまず、北部密林地帯ベニ州の町リベラルタに入った。当時、奥アマゾン一帯は天然ゴムブームのさなかで、その好景気の噂が、ペルー沿岸部の日本人を引き寄せたのである。その総数は推定で約2000人と言われる。

その後、当時まだ人口2万人程度の田舎町だった東部サンタクルスへ。佐藤さんのコメントにあった日本人ボリヴィア移住史編纂委員会編『日本人ボリヴィア移住史』を見ると、13年当時にサンタクルスを訪れたという人が、当時の市内在留邦人数を計6人とし、《倉本(原文ママ)先生ら(鹿児島出身者)4名は共同でこびきをしておられました。その後はこびきをしてもよくないから、農業をやっておりました》と語っている(※実際に栄蔵さんがこの町に来たのは、後掲の手紙にあるように、14、5年頃と見られる)。

息子のティト・クラモト氏

2000年に刊行された移住100周年記念誌『ボリビアに生きる』には、栄蔵さんの息子ティト・クラモトさん(画家、サンタクルス在住)が父親の思い出を寄せている。

《父は当時のサンタクルスのことをよく語ってくれた。ちっぽけだけど騒々しく、ゴム景気に魅せられて幸運を掴もうとする外国の冒険野郎があふれる町だったと。酒場ではフランスのシャンパンが飛び交い、賭博をするテーブルには札束がつまれ、幸運と不運が渦巻いていた。あぶく銭の夢にとりつかれた愚か者たちの世界であった。(中略)父、蔵元リカルドは、結婚して8人の子を授かった。農業をやめて店をはじめ、金を儲けたが、やがて経済危機に襲われて店を失い、1960年に64歳で亡くなった》(※死亡時の年齢は誤り。手紙の記述によれば、73、4歳にはなっていたはずである)

ペルーでのサトウキビ労働、アンデス越え・アマゾン下りの旅、密林でのゴム採取、サンタクルスでのこびき、農業、商店経営。そして、現地人女性との結婚と8人の子供の養育。そんな風にして栄蔵さんは、南米での半世紀を生きたのである。

 

さて、その栄蔵さん宛ての手紙は、大半が弟の直左衛門さんと国彦さんによって書かれている。13年に直左衛門さんが出した手紙はまず、栄蔵さんの暮らしぶりへの質問から始まる。

《御住居なされ居候所は山中にて家も如何なる家屋に御座候や。又山中には如何なる動物の住せし所に御座候や。又朝晩の食物も如何なる物を御食になされ居候や…》

その前の通信で、栄蔵さんの方から密林地帯にいることを書き送ったのだろう。文面には異郷の暮らしへの興味があふれている。また、後段では、同郷・近郷出身の(おそらくはペルーかボリビアへの)出稼ぎ者の間で、知人に実家への送金を委ねたり、帰国者に現金を預けたりして、持ち逃げされてしまう事件が相次いでいるようだ、と警告している。

《兄弟の如くむつましくして居る友達たりとも、人を頼みて送金致したり、人に金を貸したり致されざる事を願い置き候》

ひと月半後の日付で直左衛門さんから届いた手紙。

《御貴殿にては、マラリヤ病御全快の由、家内一同喜び居候。(中略)母上が御貴殿の御衣服のこと等を夢に見ました。衣服は如何なる事に御座候や。又、御帰りになったといふ夢も度々見ました。(中略)御身は御大切にして御働き下され度候。又、借金が終われば御帰り下され度候》

翌年、直左衛門さんと国彦さんの連名の手紙は、トリニダ市に転住した栄蔵さん宛てに送られている。トリニダは密林地帯を外れ、サンタクルスに向かう途中にある町である。密林のゴムブームは1910年代後半に終わるが、栄蔵さんはそのひと足先にリベラルタを離れたことになる。

《貴殿にては只今リベラル(ママ)と五、六百里も離れたるテルニダ市(ママ)に御移転の由、又貴殿は只今御身体も御健康にて氷製造の法を御努めなされ居候由、何卒御喜ばしき事(中略)内地にては古今稀なる桜島大爆発至し候処、火山灰、五、六寸、七、八寸、所に依ると一尺程も積み、農作物に非常な損害をなし居候》

栄蔵さんの実家は鹿児島県国分町(現国分市)の農家である。一連の手紙から推測される家族構成は、実家に両親と13歳年下の弟国彦さんがいるほか、台湾に姉、実家の近くに妹が嫁いでいる。初期の4通の差出人である直左衛門さんは、栄蔵さんを「兄上殿」と呼んでいるが、6通目以降、差出人が国彦さんに代わって以降は、文中にもその名は登場せず、実弟でなく親類の1人という可能性もある。

08年、22歳の栄蔵さんが出国した時、国彦さんはまだ9歳の少年であった。当時はその上に、竹熊というもう1人の弟がいて、栄蔵さんは後事をこの弟に託したようだが、竹熊さんは10ヵ月後に病死してしまった。

栄蔵さんの南米行きの動機は、前掲の引用文中にもあるように、一家の借金を返済するためである。これらの手紙が出された13、4年頃、実家では尋常高等科卒業間近の国彦さんが両親を助けていたものの、父親は肺炎を患い、また14年の桜島噴火による追い討ちで、一家は苦しい生活を続けていた。

15年。栄蔵さんはすでにサンタクルスに落ち着き、現地人企業家の下でレンガ作りや木材業に携わっていた。以下は国彦さんの手紙である。

《今度のご書面で一番嬉しかりしは、御送金成被下るとのことに御座候。家内の借金も一昨年、兄上殿が七百円御送りし被下し其の当座は、残りの借金は三百円有余なりしが、只今は五百円近くに相達し居候。是は御承知の通り、外にはあらず、利子が元に加わり、又元利に利子が付くといふ様な事に相成りし故》

国彦さんは少年時代に別れた兄栄蔵さんを慕う気持ちが強かったようで、英語を学んでいることなど、外国への憧れも綴っている。

《只今は皆、福岡、台湾等に金取りに行きます。(台湾の姉夫婦は)私も台湾に来いとの事に御座候へ共、出来るなら米国(米州大陸)に渡り度との存念にて御座候》

同年の別の手紙では、地元国分の発展ぶりにも触れている。

《県内には電車、自動車等も設けられ、海には発動船なるものも出来、又、我国分の麓町及び県道近くの町等には電気燈も明るく相成り居候》

翌16年、こうした穏やかな文面が一転する。理由は栄蔵さんが約束の送金をせず、結果的に3年連続で仕送りが途絶えたためだった。

《(兄上は)何の為に亜米利加(米州大陸)に行かれしか。(中略)借金のすまんのは(この辺りから出稼ぎに行った人の中でも)兄上様等が2人です。之では人々も恥、兄上様等の人格に係わる事です》

実家では八方手を尽くして金策に奔走するが、思うように行かず、結局、自宅を担保に入れ、ようやく一部の返済に充てた。やがて、第3者からの情報で、栄蔵さんが送金する予定だったカネを盗難に遭った、という事情が国彦さんの耳に入る。

《兄上様も今年は来年はと月日を送って居りてはいかぬ次第。(中略)早く金を取れる方に着手致し、其の上御出世成されて早く内地へ1年たりと1ヵ月にても、1日なりとも帰郷致されん事願い上候(中略)ドロボウの為盗まれたるとの事、過ぎ去りしあやまちは仕方ないに依り、以後再びかかるわざわいの無き様、深くご注意被下度候》

実際、「ペルー下り」すなわち、ボリビアのゴム移民にとっては、この頃までが多額の仕送りを出来る最後の時代だった。その後ゴム産業は衰退し、密林地帯を去り、ラパスなど大都市に出た一部の人だけが、商業で身を立てることに成功する。その意味で、いち早く密林を出た栄蔵さんの判断は間違っていなかったが、所詮は国力の乏しい南米の小国。富をつかんだ成功者はごくひと握りに過ぎなかった。

年の離れた弟から、不義理を指弾された栄蔵さんは、針のむしろに座らされた気分だったに違いない。以後、日本からの手紙は14年間届かなくなる。栄蔵さんの方から音信を絶ったためである。そして、現地人女性との結婚。かつて密林の独身ゴム移民らは「故郷に錦を飾る志」が鈍らないよう、結婚禁止を誓い合い、そのせいで晩婚の人が多かったというが、栄蔵さんは結局、この地に根を下ろす道を選んだのである。家族との通信が再開されるのは昭和5年、1930年のことだった。

《噫、懐かしき兄上様よ。夢ではないか、本当ですか。矢張、此世に御生存なされたのですか。(中略)懐かしき御手紙と御写真を見ては、嬉しさの余り泣きました。(中略)我等一家親兄弟の事に就而は実に小説以上のものでした》

この間、一家の借金は頼母子講によって何とか返済したが、両親は他界。国彦さんは台湾に移り住み、鉄道会社に勤務していた。

《兄上様よ、我家を出立されて、此処に22年も経ちました。(中略)兄上様も帰りたいは山々であるが、引き続き御不幸の為、遂永年に亙らせられた事は良く承知して居ます。(中略)だが、米国(米州大陸)に行って成功した人は僅かしかありません。之は人間の運命です。決して郷里の人達に対して面目ない等と思われる事は非常なる間違です。(中略)我家の屋敷丈は残って居りますから、兄上様が早く帰って下さったら、その時こそ、私も一緒に帰郷して荒果てた屋敷に家を立てませう》

手紙は、栄蔵さんの結婚にも触れている。

《米人と結婚された事は実に光栄と存じます。(中略)姉上様にどうぞ宜敷く。是非日本の弟と早く面会して下さる様、呉々も御伝へ下さい》

台湾からの手紙は、35年、40年、41年と続いた。国彦さんはその度に帰郷を促している。栄蔵さんはどんな返信を書いたのだろう。文面には、中国大陸での戦況や日米開戦に向かう時代の雰囲気も記されている。そして5年間の空白。戦後、最初の手紙は46年、山口県下関市からのものだった。

《戦争に敗れた我国の惨状は実に筆舌に尽くせぬ程です。(中略)在台26年の苦労も敗戦の結果水泡となりました。只今知人の世話で左記の元で勤務して居ますが、物価の高いのは驚く位で、食糧不足と住宅難で実に苦しい生活をして居ます。(中略)当分は民主主義転換で一生懸命です》

翌47年、国彦さんは国分に帰郷、小規模な農業や行商を始める。当時の手紙には、さすがに帰国を勧める言葉はない。敗戦国日本には、南米の同胞まで迎え入れる余力はなかったのである。

《農業をして居る人達は食糧にも左程不足はして居ませんが、外地から引揚げて来た者は我等と同様悲惨なものです》(47年の手紙)

《敗戦後9年も経ちましたが、今尚国民の生活状態は苦しく、物価の高いことは驚く程です。(中略)私は相変わらず売薬の行商をして田舎を廻って居ます》(54年)

57年になると、日本の暮らしもようやく落ち着きを見せてくる。

《台湾から引揚げ後既に10年。此の間、充分苦労も多かったですが、漸くその甲斐があって昨年4月に家屋を新築致しました。(中略)我国は昨年、戦後最良の好景気だったとの事です。而し、人間の過剰が多いので、南米方面に沢山移民に行き居ります。貴国ボリビヤにも相当の移民がある様です》

移住から50年目の58年には、親類の女性からの手紙も届いた。

《父が「栄蔵叔父を鹿児島港から船が小さくなるまで岸壁に立って見送ったが、あれが一番辛かった」とよく語って聞かしていたものでしたが、父も拾年前、96歳にて栄蔵叔父様の事を言い乍ら亡くなりました。(中略)栄蔵叔父様も1回帰国して来て下さい。まだ方々に栄蔵叔父様の小さい時の遊び友達が生存していられます》

59年。国彦さんは栄蔵さんの子供たちについて尋ねている。

《兄上様の長男医科大学生は既に卒業された事と思います。又次男の陸軍士官学校生も亦卒業して軍務に就かれた事と思います。亦娘たちも成長して追々結婚の時期と考えて居ります。(中略)日本も文明国になって、テレビジョンも沢山あります。当部落にも少しはあります。道路も追々とコンクリートで舗装されて居ます。子供を一度帰省させることは出来ませんか。そしたら色々な事情も判り、尚参考になる事も多いと思います》

歳月を経て、国彦さんの言葉も、帰国の勧めから帰省の勧めへと変わった。この手紙を受け、栄蔵さんは家族の写真を送ったようである。それに対する礼状が、国彦さんからの最後の手紙となった。

《(子供たちは)皆立派になりましたね。兄上様御夫妻の宝と云う可でしょう。(中略)現在では(私は)別に不自由な生活でもありません。(中略)父の代、少年時代、貧乏な暮らしをして苦労をしました事を忘れず、今日まで頑張りました。(中略)兄上様も体が元気になられたら一度、姉上様と同行して帰国されませんか。航空機ならすぐですよ》

貧しい東洋の島国だった日本から、家族の期待を背負って旅立った明治・大正期の南米移民。今日でこそ、経済大国となった故国だが、あの当時、それを見通せる人は少なかった。そしてまた、日本に残った人々の辿った道程も平坦ではなかった。こうして、多くの移民たちは、肉親との再会を果たせぬまま、その生涯を閉じたのである。ちなみに、ボリビア・奥アマゾン地方にいた最後の「ペルー下り」は90年代に他界している。

(※注:引用文は読みやすいよう句読点を補足しており、また一部の明らかな誤表記は直してあります)

【移住家族 第424号/2005.6.30】

移住家族のページへ戻る

ボリビア日系協会連合会 / Federación Nacional de Asociaciones Boliviano-Japonesas
Tel:(591-3)333-1452,Fax:(591-3)333-1452,住所:Calle J. Coimbra 57,郵便:Casilla 2006, Santa Cruz-Bolivia,E-mail: fenaboja@cotas.com.bo
”ご意見、感想、身近な出来事・情報・記事(日系社会、日系人、ボリビア〔南米〕に関わる事)を是非お寄せ下さい。”
Copyright © 2002.5-2005 FENABOJA. All Rights Reserved.