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移住者家族子弟研修生受入事業
34年の歴史に終止符!
平成11年度より、日本海外移住家族会連合会から当協会が引き継いで実施していた「移住者家族子弟研修生」受入事業が、同補助金の廃止にともない平成16年度をもって終了となった。その間受け入れた研修生は34期にわたり334名に上る。研修で身につけた技術を生かして現地で生活の基盤を築いた人、研修した技術とは関係ない進路に進んだ人、日本でさらに研鑽を続ける人、道はそれぞれだ。事業の終了にあたって、かつての研修生たちに思いを寄せてもらった。
移住家族子弟研修制度の廃止によせて
パラグアイ 第1期生岡本 貴樹さん ボリビア 第2期生比嘉次雄さん ブラジル 第14期生伊江朝彦、仲宗根勝、多田和史さん ボリビア 第15期生伴井勝美さん ボリビア 第31期生比嘉クラウディアさん
子弟研修制度が平成16年度を持って終了する事を知って、戸惑いの気持ちでいっぱいです。受入数を現在の2倍に増やすべきだとすら思っていたのに、全面廃止になるとは残念でなりません。日系社会への経済援助を差し置き、日本語や日本文化なども切ってしまえば、30年、50年後には日本離れするのではないかと心配しています。
研修制度が終了と決まったからか、30年前の研修時代が頭に浮かんできます。私は第2期生としてボリビアから日本に行きました。その年、72年3月の末。オキナワ移住地が開拓真っ最中の時代です。当時、電気の無いところでしたので、電気工事を選択しました。電気の知識を身につけ、移住地全体を灯すんだと夢に膨らんでの来日でした。
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2期の父・次雄さんと31期の娘・クラウディアさん |
1年目は、足立職業訓練校で電気工事の研修、同時に東京都立豊島高校定時制へ入学しました。2年目は実地研修で、富士電設株式会社へ入社と同時に赤羽職業訓練校夜の部にも入って電気設備を勉強。寮に帰るのは11時頃の毎日でした。週末は日帰り旅行が続きました。あと何カ月でボリビアに帰国しなければならないと思うと、できるだけ多く日本の各地を見たい思いでした。
忘れる事のできないのが、最初の夏休み帰省として沖縄までの往復旅費を頂いたのですが、そのお金で実は友達と北海道旅行をした事です。キャンプ場に泊まりながら北海道を1周する事ができましたが、沖縄県側にも担当者にも連絡なしで行ったので、もう少しでボリビアに帰されるところでした。今となっては懐かしい思い出です。
研修制度が始まって30年以上が経ちますが、後輩達にはとにかく日本を観てきなさい、多くの体験、経験をしてきなさいと助言してきました。2年間は、技術的には短いけれど、その他に何かを覚えて帰ってくるような気がしてなりません。
日本で研修を受ける機会を与えて下さった移住家族会の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。今後も日本人として日本の国を誇りに思って生きていきたいと思います。
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皇居で田中龍夫移住家族会連合会会長の案内を受ける研修生たち。 右端が15回生の伴井さん。田中先生の右隣は14期生の伊江さん。 |
15期生としてボリビアから日本に旅立ったのは、今からちょうど20年前の1985年でした。日本での生活の中で、まず思い出すのは初めて使ったトイレ。水洗なのに便座がなく、前向きか後ろ向きで悩んだ事。そして研修先の品川職業訓練校までの電車の色。当時はまだ国鉄の時代で、山手線は「黄緑色」と聞いていたのに、ホームに入ってきたのはシルバーに黄緑のライン入り。「黄緑色」の電車がくるまで待ったものでした。
研修の専攻科目はインテリア施工科。外国からの研修生という事で講師の方々や同級生には親切にしていただきました。また、田中龍夫先生とお話をさせていただくという機会があり、皇居で待ち合わせをしてお話をしました。田中先生は気さくにお話をしてくれ、「南米が本当に好きなんだ」という言葉がとても印象的でした。
2年目の実地研修では、店舗設計施工会社でスーパーマーケット、薬局、すし屋、飲食店などの内装関係の仕事を経験させてもらいました。もう一つ、会社で知り合った女性と帰国8年後に結婚することになり、ボリビアで家族4人幸せに暮らせることも、この研修のおかげです。
ボリビアに戻ってもインテリアの仕事には就けなかったけれど、研修で得た経験は私の仕事の中で活かされ続けています。今年2005年からサンフアン日本人移住地がサンフアン市になり、その初代市長として任務に当たっていますが、私がこのような仕事を選んだ要因の一つに、尊敬している田中龍夫先生の影響が大きかったことは言うまでもありません。
研修生として2年間日本で生活したことは、日系ボリビア人として財産であり誇りでもあります。これからも、子供たちに日本の生活習慣を語れる貴重な財産として守り続けたいと思います。同じ研修制度で日本に行った後輩達にも、2年間という貴重な時間、技術、努力を常に思い出し、自国の人々に少しでも恩返しをして欲しい。これは誰のためでもなく、自分のため、そして子孫のためになるのです。
最後に、これまで子弟研修制度を支えてくれた日本の皆様、田中龍夫先生、歴代事務局長の方々、お世話をしていただいた方々に心から感謝いたします。
日本に興味を持ちはじめたのは、日本語学校に通ってどうしても漢字を覚えないといけない事からでした。「どうせ一生日本とは無縁」だと思っていた私に、父は自分が日本へ研修でいった事の話を聞かせてくれました(2期生の比嘉次雄さん)。父の話はすごく面白く、日本での生活、文化、季節、食事などたくさんの経験や失敗などを聞きました。
父が日本に行ってから30年後、31期生として私は日本に行きました。慣れない通勤電車、エレベーターを歩く人、自転車、季節とともに変わる服装、バーゲンセールの人だかり、ゲームセンターやパチンコのネオン、地下街・・・。私もいろんな場面で日本の文化、風景、季節を楽しみました。
都立飯田橋技術専門校でパソコングラフィックを学んだのですが、初めてパソコン室に案内された時、感動のあまり涙が出ました。「ホームシックにかかったのかな?」と聞かれて、花粉症だと言ったと思いますが、実際はその瞬間、日本で勉強するんだと実感し、感動していたのでした。
研修中は、駅前にあるコンビ二のおじちゃんと友達になりました。そこで買うホカホカの肉まんは、寒い日の定番メニューでした。帰国後3年が経つ今でも、おじちゃんの笑顔は忘れられません。
実地研修では、社会の動きを実感し、責任の重要さを学びました。
帰国前。すっかり日本の生活に馴染み、満員電車は背中から乗り、早歩きは得意になり、バーゲンに目を惹かれ、ゲームセンターでストレス解消、地下街を探索し、本屋さんで立ち読みをする私がいました。
2年間で、たくさんの人に出会い、色んな思い出ができました。悔いの残らないように1日をすごす事の大切さを覚えました。そして何よりも自分に自信が付きました。
研修制度終了の事は耳にしていましたが、もうその期間が来たのかとびっくりしています。私と日本とのつながりをくれたこの研修が廃止になることで、日本との縁が切れるのか?と不安な気持ちもあります。
お世話になったたくさんの人にありがとうを込めて・・・。本当にありがとうございました。
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第1期生の5名。前列左が岡本さん(研修旅行でのスナップ) |
1971年、家族会の子弟研修生第1号として、18才で参加しました。第1期生ということで、各国から1名ずつでした。生まれて初めて飛行機に乗り、東京に着いて驚いたことは、人と都市のビル、華やかな商店街、たくさんの車、電車でした。板橋の職業訓練校と宿舎の練馬区力行会の寮を毎日電車で通いました。友達とスペイン語で話しながら歩くと、周りの人が珍しそうに見ていました。
1年目は電気の勉強でした。日常の会話には苦労しませんでしたが、むずかしい専門用語を覚えるのには努力しました。1年間で強電気の3級技術士の免許を頂きました。2年目は、自動車整備を選択し、2年目の終わりに3級整備士の免許をいただきました。
2年間の楽しい思い出は、初めてスキー場に行って雪の上を走り回ったこと。浅草の祭りに参加し、お神輿をかついだこと。その時のハッピや鉢巻は未だに大切にしまっています。それから、女子大生の皆さんとグループでお付き合いしたこと。みんな、やさしくきれいな人だったこと、忘れません。その他、大阪、香川、徳島と親戚周りをして、お小遣いをたくさんいただき自転車を買ったこと。友達と北海道までドライブ旅行をしたこと。今思うと、本当に夢のような2年間でした。
パラグアイでは、大学へ通いながら自動車修理工場で働きました。大学卒業後、27才で結婚し、独立。オートバイの販売と修理(日本より輸入)の会社を、スペイン人の友人と共営していました。景気もよく、便利のよい所に土地を買って家を建てました。その後、友人が事故死してからは、2003年12月末日まで1人でがんばりました。しかし、次第に不景気となり、思い切って店を閉めて日本に来ました。弁当屋のチェーン店で電気関係の仕事があり、とても助かりました。家族も来て、大学生の長男と母(75才)がパラグアイで留守番をしています。日本で3年ぐらいがんばって帰るつもりです。
研修のおかげで手に職を付けることができ、本当に助かりました。後輩たちもきっと、この研修で得た経験を生かしてがんばっていると思います。身に付けた技術は、人に取られることもなく、火事や台風でさらわれることもなく、一生自分の武器として守ってくれることを確信しています。研修中に世話になった方々の期待を裏切らないよう、お互いがんばりましょう。
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研修で生涯の友を得たという14期生の 伊江さん(右)、仲宗根さん(左)、多田さん(中央) |
34期生をもって研修生制度が廃止になるとの知らせを聞き、我ら3人言い知れぬ寂しさを覚えました。21年前、夢と希望、少しの不安を持ち日本へ研修に行ったことが、つい昨日のように思えます。研修を終え、ブラジルに帰ってきて一生懸命頑張り、その甲斐あって伊江朝彦は警報機器の製造と警備の会社を立ち上げ、仲宗根勝は旅行社を立ち上げサンパウロの中心地でもあるパウリスタ大通りにオフィスを構えるまでになりました。私、多田和史は宝石の職人としてがんばっています。
同じサンパウロ市内に職場も住まいもあることもあり、我ら3人は週に1回は同窓会(?)と言っては食事をしながら仕事や家庭の悩みなどを話し助け合ってきました。そして、必ず研修時代の思い出話が出て盛り上がります。研修期間は我々にとってまさに青春そのものでした。
研修を終えブラジルに帰って来た我らは、各自の事業を始めましたが、日本では想像もつかないハイパーインフレやブラジル政府のメチャクチャな経済処置、ノンキな国民性などでなかなか思った通りには行きませんでした。多くの日系人が日本へデカセギに行く時代が来ましたが、我ら3人は「ここで弱音を吐いたら自分自身に負けてしまう」と頑張り通しました。そして1人が成功し始めると、自分も負けていられないと、親友でありながら良きライバルでもありました。
3人とも自分たちの子どもにもぜひ、家族会研修制度で日本へ行かそうといつも話していましたが、今回の知らせを聞き、残念でなりません。時代が変わり、たしかに日本へ研修を希望する若者も減りました。ブラジルの将来を悲観し、気楽に旅行気分でデカセギに行く若者が増えました。こんな時代になった今こそしっかり手に職を持てばいいのですが・・・。
少し私個人(多田)として感謝の言葉を言わせてください。14歳で親とブラジルに移民した私は、このブラジルに馴染めず、学校へもろくに行かず、ただ毎日をブラブラ生きていました。こんな私を見かねて20歳のとき、当時のブラジル千葉県人会、鈴木会長にこの研修制度を薦められました。日本へ帰りたい一心で試験を受け、研修生として日本に帰ることができました。嫌っていたブラジルですが、この研修で変わりました。逆にブラジルでやっていく覚悟と自信ができました。そして、この研修でかけがえのない親友を得ました。大げさなようですが、この研修制度によって私は救われました。本当に感謝しております。
【移住家族 第423号/2005.4.28】
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