

・コビハの日系人 (「日本人ボリビア移住史」より一部抜粋)
コビハ市は、ブラジルとの国境に位置するパンド県の県都である。現在の人口は約30,000名。この町にも日系人会がある
1908年ごろ、ボリビアのゴム景気に引かれて多数の日本人がペルー国からこの方面に入ってきた。マドレ・デ・ディオス河畔のカルメン(パンド県)では、1915年には60人、1918年には150人の日本人がいたといわれるが、ゴム景気の衰退と供に日本人も四散し、それらの人々のうち町で商業などに従事した人や、近郊で野菜栽培などの農業に従事した人がいた。
1925年頃にコビハ市には約75人の日本人がおり、二つの日本人会がほぼ同数の会員数で組織されたいた。
当時、日本人は悪いことをしない、よく働く、子供の教育に非常に熱心という評判を得て、また、毎年天長節を盛大にやり、ボリビア人の役人も招待して好評を得ていたともいう。
現在、日系人は二世から五世まで数百名がいる。政治家や大学の学長、医者や技師など同地においては著名な日系人も多い。
現在の日系人会も、めだった活動は行われていないが、同地の日系人会の親睦と日本との情報交流等の窓口的な役割を果たそうと努めている。また、近くのポルベニール町にも数十名の日系人が、日系人会を組織している。
・パンド県の日系社会 (日本人移住100周年誌「ボリビアに生きる」より抜粋)
パンド県の県都コビハ市はブラジルとの国境沿いにあり、アマゾン川の支流であるアクレ川の南岸に位置する都市である。1992年の国勢調査では、コビハ市の推定人口は約一万人であった。しかし、その後アンデス山岳地帯からの国内移住が盛んになり、2003年のコビハ市の推定では約33,000人となっている。川の対岸にはブラジル側の町ブラジレイラがあり、この町を通してブラジルから様々な品物が輸入され、またパンド州の生産物の多くが輸出されている。
コビハ市に最初に入った日本人については、一般に滋賀県出身の西川與三郎であったと伝えられている。彼はペルー第四航海の移住者として1907年2月にカリャオ港に到着し、ゴム液採取労働者としてタンボパタ地域で働いた後でボリビアに入ったといわれている。彼がコビハ市に住み始めたのは1916年である。ボリビアにおけるゴム景気の最後の絶頂が1915年頃だから、コビハ市に日本人が住み始めたのはゴム景気が衰退し始めてからということになる。1921年には、コビハ市に住む日本人の数は65名に増えていた。コビハ市において最初の日本人会が結成されたのは20年代半ばであるが、その主力となったのは、ゴム景気の衰退によってゴム林を出て町に定着した人たちだった。
天然ゴムの生産による空前の好景気は、第一次世界大戦の終結とともに幕を閉じた。その後、日本人ゴム液採取労働者のほとんどはゴム林を出て、コビハ、ポルベニール、リベラルタなどの町に集まり、商業や農業を始めた。この頃はまだ、コビハよりもポルベニールの方に日本人が多く住んでおり、ポルベニールがパンド地方における最大の日本人集住地域であった。こうして町に定着した日本人たちは、日本人社会を形成し、1925年にはコビハ市で、「コビハ日本人会」をつくった。
日本人移住者たちは、第二次世界大戦の間は敵性国民として、戦後は敗戦国民としてボリビア政府から扱われた。そのため彼らは、自らの身を守るためにボリビア国民としてのアイデンティティーを受け入れるようになり、日本人として生きてきた過去に対して口を閉ざすようになった。このことが、現在に至るまで日系団体がほとんど活動していない原因の一つであると考えられる。その後彼らの歴史は、そのほとんどが闇に埋もれ、わずかに残った断片的な事実が伝説化してその子孫に伝えられた。また移住者たちが残した記録も、その価値が確認されないまま、ほとんどが失われた。
一方、戦後は彼らの子供である二世がボリビア社会の中で活躍し始めた。二世たちは、公務員、商業、農業、教師、医師、弁護士などさまざまな職業に就いて地域社会に貢献した。また現在までにパンド県の日系社会は、二人の州知事、三人の下院議員、一人の上院議員を出しており、下院議員の内の一人は現在も活躍中である。また、コビハ市長やポルベニール市長も出している。
コビハ市では現在、日系社会の窓口である「コビハ日系人会」が存在するが、ほとんど活動はしていない。1999年に行なわれた日系人会会員対象のアンケート調査の結果(100周年記念誌「ボリビアに生きる」の著者実施)によると、コビハ市にはかつて少なくとも29名の日本人移住者が存在し、その二世は131名、三世は494名、四世は775名、五世は183名であることが分かった。ただし、これらの数字はすでに死亡した者や他の地域に転住した者も含んでいる。ちなみに現在、一世はすべて死亡している。
日系社会の現況として、日本に出稼ぎに行ったり、高等教育を受けるためにラパスやサンタクルスに行った若者がコビハに帰らなくなり、年毎に青年層が減少していることが挙げられる。現在日本に滞在している者も多いが、希望する者すべてが日本に渡航できたわけではない。彼らが日本で就労するためには、まず自分が日系人であることを証明する必要があるからである。ところが、ボリビア北部一帯では現在でも婚姻届を役所に提出する習慣があまり徹底していない。地元の女性と家庭をもった日本人の多くもそうであったのだろう。そのため、父や祖父が日本人であることを証明できない日系人が多く、日本へ出稼ぎに行けなかった。一方、希望通りに日本で就労できた若者たちがコビハに帰ろうとしない理由は、多くの場合、少しでも多く貯金をしたり、家族に送金したりするためのようであった。しかし中には、家族との連絡を絶ったまま行方が分からない者もいる。ラパスやサンタクルスで高等教育を受けた若者たちがコビハに帰らない理由は、収入の良い職場がコビハには少ないからだということであった。
人口の希薄なパンド県では総人口に占める日系人の割合が多いため、至るところで日系人に会うことできる。日系人たちは、互いに「パイサーノ」(同国人)と呼び合っており、訪れた日本人に対しても同じように呼びかけてくれる。彼らは既に日本人の面影をほとんど失っているが、ただ一つ、「パイサーノ」の意識だけを確実に受け継いでいるようである。
パンド日系人会
ASOCIACION NIKKEI DE PANDO
住所:Calle Ayacucho esq. Av. Pando, Cobija, Pando, Bolivia
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